ウィーンフィルを聴いていたのに、いつの間にか水族館にいた話
ウィーンフィルの演奏が終わった後。
「魚…たくさんの魚。生きのいい魚。
キラキラしてて、ずっと眺めていたい…。」
ホールはもはや、水族館のようだった。
2回目の緊急事態宣言が出る、ちょっと前の2020年11月の話。半年前から心待ちにしていたイベントがありました。
それは、ウィーンフィルの来日公演。
アイドルとか、今人気の歌い手のライブドームツアーってワクワクしますよね。もちろん歌を聴きに行くのが目的ってのもあるのだけど、それ以上に、大好きな歌い手と同じ空間を共有することだったり、それと周りの見ず知らずの人といつのまにか仲良くなっちゃうような雰囲気を感じちゃったり、とにかく最高にエモいんですよね。もはやお祭り。
そのぐらい、ウィーンフィルの来日公演を密かに、楽しみにしてました。
世界に数多に存在するプロオーケストラの中で、プロ中のプロ、老舗中の老舗のウィーンフィル。しかも、海外オーケストラの公演を生で聞くのは初めて。
イヤホンやヘッドホンで聴けるじゃん?なんでそんなにライブにこだわるの?と思う方もいらっしゃると思います。
そんな質問に答えるとしたら
「好きなアイドルとか推しとか近くで見れたら嬉しくないの?!」
とにかくオーケストラ、クラシックが好きなんです。そんな音楽を演奏するウィーンフィルも、大好きなんです。
当日。サントリーホール。
心なしか、パンフレットも豪華に感じました。まぁ多分、他の本邦オーケストラのとそんな変わらない。
11月14日の公演は、ウィーンフィル来日ツアーの最終日。最終日のプログラムは、牧神の午後の前奏曲、交響詩《海》、火の鳥だった。
なんて贅沢なプログラムなの!?もうお腹いっぱい。聴く前からお腹いっぱい。本当大好き。…そんな気持ちのまま演奏会が始まりました。
実際の演奏会は2時間程度です。なんだけど、体感としては1時間あったのかな?という感じ。それだけ没頭しすぎて、息もするのを忘れるくらい。
息しなさすぎて酸素が脳に巡らないから、ぼーっとしてただけだとしたら、めちゃくちゃ悲しい。けど、それは絶対にない。
うん、いい意味で脳みそまでとろけてました。
彼方の存在の人が、目の前で淫靡なダンスを披露してるかと思いきや、服を脱ぎ始めちゃってもう僕の脳みそはぐちゃぐちゃ、的な感じ。(一昔前、温泉街にたくさんあったストリップシアターかよ。)
すこーし不純な気持ちになったのは、本当にほんのすこーしでした。
いつも聴くのは、耳に一方的に直接語りかけるような音のみでした。今のイヤホンはとても優秀なので、周りの音を遮断しながらその音楽に最適な音響を実現してくれます。
とても最高なんですけど、それじゃ物足りなかったんだということを、ウィーンフィルは気づかせてくれました。
--- ---
イヤホンで聴く音楽は「刺身」
ライブで聴く音楽は「活魚」
--- ---
「活魚」は、生きたままの魚をそのままお店に卸すこと。その後さまざまな保存方法を駆使して「鮮魚」として保つこと。そんな鮮魚を、おいしいおいしい「刺身」に加工していただくこと。
魚ってうまいんですよね。最近日本酒をよく飲むようになって、やっぱ日本酒には魚かなって思って、選んで食べる機会が多いです。
イヤホンから聴く音楽は、聞き手が選ぶと思います。好きな曲を好きなだけ聴けるのは、なんと素晴らしいことか。文明とテクノロジーに感謝。
だけどもそれと同時に、その音楽は聞き手に恣意的に選ばれた音楽でもある。
人は知らず知らず「自分の好きな音楽しか聴かなくなる。」それが、イヤホンによって加速してると思うのです。
好きな刺身を食べる。けど、その刺身がどの部位で、どんな魚なのか?そんな魚をてきぱきと捌いた人って一体誰だったのか?そんなことを細かく気にして刺身を食う人はいないと思います。
刺身は、ただ美味ければいい。
イヤホンから聴く音楽は、ただ好きなものだけでいい。
そう考えたきっかけは、今回聞いたウィーンフィルの演奏が、ひったすらに「生だ!」と感じたから他なりません。
《ステージの上で魚が泳いでる》
真面目に正直に、当日はそう思うしかなかった。その演奏が生々しすぎて、刺身とか鮮魚とかゆうに飛び越えちゃってる。じゃあなんだ?と考えてみたら、もうそれは「活魚」じゃないか?そう思ったんです。
死んでいないんです、音が。イヤホンから聴く過去に生きていた音楽じゃなくて、ただ今に存在する音。今を生きている音。キラキラして、まるで魚の鱗の輝きのよう。
言葉にするのは容易じゃないんですけど。生臭さって、人も魚も、生きてる証っぽいなって気がするんです。ウィーンフィルには、そんな生臭さを直に感じたから、そう思ったのかもしれません。
刺身を食べるとき、それが美味いか不味いかを吟味すると思います。けれども、活魚は、生きている魚です。ゆえに、美味いか不味いかではなく、魚そのものの生命力にただ感嘆するだけだと思うのです。
活魚が、美味いのか不味いのか。どちらかではない。ただ、元気に生臭さを漂わせながら、今を生きている。
ウィーンフィルの音楽が、上手いのか下手のか。どちらも違う。ただ、奏者自身から湧き出てくる音に忠実になりながら、今に音を奏でている。
そんな「生(せい)」を目の前にして、僕は息を殺しながら、ただ元気な魚の群れの動きを見つめるしかなかった。という話。
少し音楽っぽいことを言うと、五線譜の縦や横に捉われないような印象を受けました。人によっては、それが気持ち悪く聴こえるかもしれません。
しかし、僕にはそれが、めちゃくちゃ心地よかった。音はただ、音として存在していて、その音は活魚みたいに、さささーっと、どこかへ行ってしまうんです。
まじでがちで、ウィーンフィルの音楽は、自由な音の集合体でした。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?