私はコンビニ店員が大嫌いだった 『コンビニ人間』/村田沙耶香
村田さんの小説にはまってしまい、すぐさま次の作品を読了。
本著を読みながらまず想起したのが、「過去のコンビニでのアルバイト」の出来事である。
恐らくそのころ、私自身は相当、まわりの店員(昼勤の既婚女性)に馬鹿にされていたと思う。その経験が、自分の思い込みであるという範疇からは、完全に抜け出せないかもしれないが、当時も、今も、そう思う。
何でなのか、今も分からない。仕事っぷりがくそだから?性格がくそだから?
何十万人といる一大学生、もっと拡張して言えば、何十億人といる一人間のことについて、誰も興味がなかったからだ、ということは断言できそうである。
だから、私は「理由」が分からないまま、だ。
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しかし、その「理由」とも、いつか折り合いをつけなければならない。自分自身が納得する形、というよりも、より社会的動物として迎合するような、非常なまでに、合理的な形で。
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そんなことで、私は、コンビニでのアルバイト時代、昼勤の既婚女性や、オーナー店長のことが、物凄く嫌いだった。
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まず、昼勤の既婚女性。
勿論、その女性たちはコンビニでのアルバイト歴は長いので、私を指示する立場だ。
そして事あるごとに、遠回しな言い方で、人格攻撃じみた発言を私に振りかけるのである。私に対して、何がそんなに癪に障るのか、全く理解できなかった。
考えられる理由として、1つ目は「仕事の効率性」であろう。2つ目は「年下」。3つ目は「異物さ」。
仕事の効率も悪かったかもしれない、しかし、業務上に損失を与えるようなことはしていない。また、はるかに年下の男性であった私は、ちょうどよい、はけ口の対象となった。
家庭内での夫との関係、子供の融通の利かなさ、社会的性差や性役割へのうっ憤など…いろいろな思いが溜まっていたのだろう。(だからと言って私をはけ口にされても困る。)
そして、昼勤での女性社会における私はまさに、当女性からしたら異物だった。まるで、私たちが性的な目で見られているのではないか、という立派な妄想のようなものが、有ったのかもしれない。
そんなことは無いとは思うが、同じ場を共有する人同士とはいえ、利害が一致するのは、「コンビニ内での関係」の場、のみである。
それ以上の関係、または、その関係を崩すような異物、は極力避けるべきであるし、避けようがないと判断したさいには、差別をしたくなるのが人間の悲しい性である。しかし、理にかなった行動でもある。
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次に、オーナー店長。
私に、平気な装いのまま、「夜勤の〇〇君。ほんと駄目だよね。使えないよ。早く辞めてくれないかな。」と、発言していたことを鮮明に思い出すことができる。
本著の「コンビニ人間」での描写にもあるが、リアルでこのような発言を聞いたことを思い出し、とても居心地が悪かった。
その発言を、私に向けられたものとして、私が受け取るのではないか、という想像を、あなたはできないのだろうか、と心底思った。
もしくは、巧妙な、私への侮辱なのだろうか。(だとしたら、とても上手い。)
確かに、店トップの「店長」は、自分の店を自分の好きなようにカスタマイズすることが出来るし、それによる利益・収益アップをクリアしなくてはならない。今思えば、合理的な言い前だ。(暴力的ではあるが。)
ただ、1つ指摘したいことは、その発言によって、いったい何が生まれるのだろうか、という素朴な疑問である。
そんなことをいう時間があるのなら、その使えないやつの夜勤の穴埋めをした方が、よっぽど納得ができる。
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理詰めの関係は、いつか崩壊する。
昼勤の既婚女性も、オーナー店長も、いつか崩壊する。
もっともなことを言いながら、自分を守り、自分の安住の地を作ろうとして、失敗して、いつか崩壊し、死んでいくのだろう。
既に私は、この人たちを、殺した。私の心の中にはいない。
しかし、その人物を「コンビニ人間」でありありと見た。生々しい程の、社会的動物の実体と、その実存環境について。
そして気が付いたことがひとつ、ある。私は、「慣れてしまっている」のだと。この社会、今の職場の環境という、私自身の領域に。
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「普通」を規定している、私の環境は、「普通」ではない。誰かの合理性は、誰かの非合理性なのだ、と気付く。
そして、合理性は、突きつめすぎると、すべてが崩壊する。
「あえて、非合理的であろう。」
今のまさに、深遠な合理的な社会の海へと潜っている最中だが、たまに浮上して息を吸い直すために、この言葉を胸に秘めたい、と本著を読んで思った。
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