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「2元性」として対峙することで見える煩雑さとその必要性について

「2元性」:事物が異なる二つの原理で成っていること。また、その原理。

多くの事物は異なる2つにわけることが出来る、という性質のことです。わかりやすい例でいえば、「男」と「女」などの、生物学的な2元性があげられるかと思います。男性的特徴、女性的特徴とは、誰もが主観的な五感で、または客観的に認識することが出来る、「常識」となっています。または、陰と陽、上と下、内側と外側、など抽象的な事象においても考えられる性質です。

2つの原理で成り立つということは、各個人の具体的または抽象的な経験により、どちら側の原理に則って存在しているのか、と思案を巡らすことがあるかと思います。

例えば、仕事での昇進に関した価値観においては、「とにかく昇進したい」という考えと、「仕事の本質を極めたいから昇進はどうでもいい」という2つの道が考えられるかと思います。この2つの価値観が衝突し合うとき、現代の日本では、公共の福祉という言葉にもあるように、憲法によってお互いの権利は保護されることは間違いありませんし、端から見ましても、どちらの存在も立場も、揺るぎない価値があることは分かります。
しかしながら、お互いが認め合い、譲歩し、全く違う人間として高め合おうという相互扶助の関係を、すんなりと見出せるものでしょうか。各々の矜持がはっきりしていた場合、それが容易いことであるとは、私は思えません。

自己を変化させて、多様に受容していくことが得意な日本人であれば、まだ外国の方よりも、それを達成することは、割合的に言えば有利なのかもしれません。しかし、上記はあくまでも、考えやすい例です。
しかも、その相互理解の達成が本当に「妥協」ではなかったのか、証明できる人はだれ一人としていません。

こういった問題は当たり前のようにそこかしこに蔓延っています。その問題に関しては、多くの議論や価値観が衝突していますし、結論には至っていない事案が殆どであると考えられます。

性的な2元性

「男」と「女」で議論されてきた性別は、インターネットやSNSの発達がもたらした、「誰でも何でも発言が可能になったプラットフォーム」によって、その2元性に対し、徐々に煩雑さを加えてきました。

性自認とは、「自分で認識している性」です。例えば、「自分は男性だ」と思っている人がいるとします。この場合、性自認が男性と言えます。また、「自分は女性だ」と思っている方の性自認は女性、ということになります。ここで大事なのは、性自認と身体的性(身体構造上の性)は関係がないということです。(元引用先あり)
性的指向とは「どんな性を好きになるか」を指す概念です。これと性自認は混同されることもあるのですが、それは「男性は女性を好きになる=性自認が男性なら性的指向は女性に向く」「女性は男性を好きになる=性自認が女性なら性的指向は男性に向く」といった思い込みがあるからではないでしょうか。「自身の性をどう認識しているか」と「どの性を好きになるか」は異なります。(元引用先あり)

たとえば、性自認が女性で身体的性が女性のかたは、シスジェンダーの女性、と表現されます。また、性自認が女性で身体的性が男性の方はトランスジェンダーの女性、と表現されます。

また、性的思考については、性自認が男性で性的指向が男性の方は「ゲイ」表され、性自認が女性で性的指向が女性の方は「レズビアン」と表されます。

また、性自認については「男」「女」の範疇を超えないと説明がつかない事象が多々あります。それを説明するのが、「Xジェンダー」「クエスチョニング」など、です。
「Xジェンダー」は性自認が男性や女性という狭間や、それを飛び越えて揺れ動くような、どちらの立場も取らない人々に使われる呼称です。
「クエスチョニング」とは性自認や性的指向が、自分自身も不明確で、意識的に「こうだ」と定めていない、もしくは定まっていない人々に使われる呼称です。

もはや性とは、2元性で語ることは出来ません。
数年前の「常識」では、頭で処理することは容易ではないと思います。
しかしながら、考えてみれば当然のことかもしれません。一体誰が、「男」と「女」の2つに分類し、それ以外は存在しないと、決め付けてしまったのでしょうか。「男」や「女」の2元性が、環境変化や時代変化によって、多様になることが、あり得ないなんてことは無いのです。

性自認や性的指向が流動的で固定化されないということは、今の時代においては広く知られていることだと思います。
ただ、正確な事実を知られることによって更なる2元性を生むことになっていることも見受けられます。それは、「マイノリティ賛成派」「マイノリティ否定派」か。この2元性は、自身が賛成派か否定派かを表明するかしないか、また、自身が全体から判断して性的マイノリティか性的マジョリティか、こういった要素を度外視して、多くの人の心の中に生み出される、安易な2元性となっているのではないかと思います。
多様化が生んだ2元性の議論は、それが有益にも無益にもなると認知していることは前提として、更なる多様な価値体系を生むきっかけになり、物事を煩雑にしているのではないかと思います。

「男か女か」から派生した様々な2元性、安易な2元性に取り組むことは、決して容易ではありませんし、議論の先に結果が伴うのかどうかは、誰にもわかりません。しかもその結果が対局する人々の「妥協」ではないと判断できる材料はどこにもないわけです。
どちらが「正義」で「悪」なのか、もしくは「正義か悪か」か「正義でも悪でもない」のかという議論をするのは、その先に自身の原理によって相手をひれ伏せさせる未来を期待した瞬間、その議論は破綻します。
ならば、煩雑で見えていない、ボトルネックに存在する根本的な2元性(またはその原理を超えた何か)を探り合うことがより良い議論のような気もします。しかし、今の自分の知恵では、「男と女」「マイノリティとマジョリティ」の対立項における根本的な原理とは一体何なのか、全くもって分かりません。

政治的な2元性

政治的な2元性でいえば、「保守」か「リベラル」か、ということがまず思い出される内容ではないでしょうか。そもそも世界的にグローバルが進められている現状では、そのことも加味して議論しなければなりません。であるから、「保守」にも親グローバル化、反グローバル化、「リベラル」にも親グローバル化、反グローバル化、このように政治家の思想も2元性では語ることのできない煩雑な派閥が存在しており、そのことを我々は理解しなければいけません。

保守派:「自国の持つ固有の生活様式や文化、環境に制約された存在であり、そのような存在であるべきだ」という人間観を持つ者。
リベラル派:「個人の自由や個性を重んじる」という人間観を持つ者。

この保守派やリベラル派に特徴的な人間観については、各々の認識共同体の中で発生した事案にならされて、各々が意図せずに、共有しています。

新しい貨幣理論がアメリカから日本へ、徐々に認知され始めてきました。それにより、財政健全化や、歳出削減、増税、PB黒字化などの政策は愚策と表現する経済論者も多く表れ始め、時には国民の面前に表れてポピュリスト的に語る議員候補者も増えてきました。(れいわ新選組など)
しっかりとした根拠を持って、現在の日本の愚策をロジカルに批判し、それを大衆に発信し続けるのです。その様な方々が言う言葉の一つに、「新自由主義の発端とそれがもたらす影響」があります。

新自由主義:「自由市場こそが効率的に資源を配分し、経済厚生を増大させる最良の手段である」。政府の市場介入を少なくし、個人の経済活動の自由を最大限許容されるべきというイデオロギーのこと。

この新自由主義というイデオロギーは、もともと保守派にもリベラル派にも競合する観念であるにもかかわらず、もはやその両者を飽食の如く取り込んでしまっている現実があります。これは長年の積み重ねによって生じた、2元性の歪みです。今日の保守派は、「保守的新自由主義」、リベラル派は「進歩的新自由主義」と呼ばれ批判されることもあります。
どの政党の、どの人に投票したってみんな「新自由主義」という観念を本人の意図とは無関係なレベルで、保持しているとも言われています。新しい貨幣理論に立っていえば、この「新自由主義」が日本の閉塞感を生み出すイデオロギーであるという論調はそこかしこに見られますが、そうであれば国民はどの政治家に活路を見出すべきなのか、ますます分からなくなります。しかも個々人が影響されたイデオロギーは、メディア媒体では、かなりの政治的感度がない限り、ほぼ認知出来ないものとなっているのではないでしょうか。
そうなってしまっては、今までの政治の歴史を引き合いに出して、間接民主制を盾にされること自体が、非常に不快であると私は感じます。
だからこそ、国民はポピュリストの登場を心待ちにしてしまうのではないでしょうか(勿論国民も知っていくことが義務ですが)。

私と他人

「2元性」:事物が異なる二つの原理で成っていること。また、その原理。

すでに、「私」と「あなた(他人)」という2元性には煩雑さが伴っています。2元性が多くの事象の原則ではないのは勿論ですが、人間はいつも簡単に処理できるように、過小縮小して「2つに1つ」的思考を繰り返してしまうものであると思います。であるなら、「私」と「あなた(他人)」から始まる問題(ほぼすべての事象)や、これから議論する課題には2元性なんて存在しない、そう考え生きることのほうが効率的であるとも思えます。

自分の理想に生きる人、他人の理想に生きる人、それぞれが確かに生きています。これに対して、皆違って皆良い、という感想を抱くことが「分からない」という人は居ないと思います。その問題に対して、「正義」か「悪」かをお互いに議論し合うのか、その議論の中で勝ち負けを下すのか、正当性を認め合うのか、いったい何を目標にこの議論はなされているのか、訳が分からないから放棄してしまうのか。
これらの、議論しあった際に見えてくる未来は、もはや議論の本当の中身とは関わりのない別の次元の問題と化しています。
もはや「私」と「あなた(他人)」は、お互いに煩雑な思考体の存在なのだから、何が正解で何が不正解かなんて言うものはこの世に存在しない、もしくは未来永劫見出すことは不可能なのではないか、と思えた方がよほど効率的だし、現実的であるように思えます。「今に存在しているだけの2元性や議論の中心」に「煩雑な私たち」が介することがそもそもの間違いなのかもしれません。時の流れに身を任せ、解答を待つことが最良である、ということも、1つの解決策なのではないでしょうか。

しかしながら、そのように煩雑になると予想される議論を共にしてくれる他人は、私を映す鏡でもあります。
このような他人が居なければ、お互いの正義や価値体系をぶつけ合い、そこから生まれる、更なる課題に立ち向かうことは出来なかったかもしれません。
そういう意味では、なんら無駄な作業ではない気もします。

というのも、私という存在が形作られる世界には、議論し合える他人が不可欠です。
そのことを俯瞰し、大きな共同体としてイメージして、しっかりと理解できれば、「2元性や2元性以外の営みの中で、私自身の存在理由が作られる」ということを理解できるのではないでしょうか。苦しいことも、悲しいことも、嬉しいことも、そう思えるように努めるべきだと、私は思います。

参考:全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】

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