英語は言語であって教科ではない

昨日、近所のドン・キホーテで店員さんとのコミュニケーションに窮している外国人がいた。
ただでさえレジに行列ができる夕刻、対応に苦慮した店員さんと、英語で言っていることが一向に伝わらない外国人客の押し問答によって、レジ待ちの列は伸びに伸びた。
英語で対応できなかった店員さんは何も悪くないし、店側に落ち度もないと思う。
もちろん、日本語ができなかった外国人客にも何の罪もない(最近ドン・キホーテでは数多の外国人客を見かけるので、こういうディスカウントストアにこそ、英語に抵抗がない人材が必要だとは思ったが)。
幸いにも僕の直前の客がその外国人だったので、大きく時間をロスすることはなかったが、その光景を見て前々から思っていたことが頭に強く浮かんだ。

日本人であれば、よほどのことがない限り英語を勉強する。
今では小学校でも英語教育が行われているらしい。
僕が小学生の時は、英語は習い事だったのに、隔世の感がある。

さて、僕がいつも思うのは、英語は言語であって教科ではない、ということである。

僕は少しだけ、英語が母国語ではない国で過ごしたことがある。
現地人とのコミュニケーションに日本語が使えるはずもなく、会話帳で覚えたばかりの現地語か、かれこれ10年以上教育を受けてきた英語で暮らしていくほかなかった。
しかし、付け焼刃で覚えた現地語は汎用性がないし、それどころか10年以上学んだはずの英語も、最初は役に立たなかった。
義務教育の下で叩きこまれてきた英語の知識が、コミュニケーションツールとして全然機能してくれないのである。

学生時代は英語に苦手意識はなかった。
しかし、海外で役に立たないことがわかると、ものすごい挫折感に襲われた。
言っていることがわからないし、伝えたいことも口から出てこない。
当時、僕は「日本人は無口である」という印象を異国の地でばらまくだけの存在になっていた。

ところが、あることをきっかけに、英語が役立つようになってきた。
そのきっかけとは、外国人からの肯定である。
ヨーロッパの多くの若者は英語を「使える」。
傍から聞いていればネイティブと何ら変わらない(会話していると、文法的に間違っているな、と思うこともあるが、誰も指摘しないし意思疎通に何も問題はない)。
その彼らから「大丈夫、君の言いたいことは伝わっているよ」と言われたことで、だいぶ自信がついた。
このとき、初めて学習してきた英語の知識と会話をリンクさせることができた。

この経験から、こんなことを考えるようになった。

1、学校や入試の英語の成績が良く、日本人教師から英語の成績が良いと褒められたことや表彰されたことがある人
2、学校や入試の英語の成績は全然ダメだったが、外国人から「君の英語は伝わっているよ!」と言われたことのある人

1と2では、どちらが英語を使えているといえるだろうか?

僕は、外国人に「君の英語は・・・」と言われた瞬間に、英語という教科の存在意義がわからなくなってしまった。
10年以上学校でやってきたことよりも、外国人のたった一言のほうが、英語を使う上で大きな意味を持ったからである。
言語能力を数値化することにどこまで意味があるのだろうか?
英語ができる/できないを、学校の“日本人の英語教師”が判断することがどこまで妥当なのだろうか?

学校の英語の成績が悪くて英語嫌いになってしまった人は多いと思うが、その成績を決めたのは外国人ではないのだから、本当にその点数が英語の能力を表しているかなど、わかるはずもない。
ましてや学校の英語の成績は、紙にガリガリ書いたり長文を読んで意図を汲み取ったりした結果出てきた点数であって、誰かと会話して決まった点数ではない(特に並び替えて英語の長文を完成させる類の問題は、とても滑稽だと思う。正直、単語の羅列でも伝わるときは伝わる)。
しかし、残念ながらそういった教科としての英語ができないと、日本では評価されないのである。

僕の主張を繰り返すが、英語は言語であって教科ではない
いくら数値化しようが制度化しようが、相手が「伝わっているよ!」と思えばそれでOKなのである。
大事なのは、文法の正しさや発音の正確さよりも、伝えようとする努力と経験ではないだろうか。
(ただし、ビジネス英語は正しさがかなり重要になってくると思う。片言の英語で交渉したら、見下されて交渉に不利になりそうだ)

僕は受験生の時、安河内哲也先生の講義をモニタ越しに受講していたが、先生は繰り返し「音読」の重要性を説いていた。
どんな長文でもとにかく音読しろ、周りの生徒に怪しまれてもいいから念仏のように唱えろ。
最初は半信半疑で音読をサボっていたが、家でブツブツと読むようになってから長文でも英語が頭に入るようになってきていた。
言語なのだから、口に出して学習することは当たり前なのである。
こうなると後は「文法や単語を知っているか」の勝負で、わからない単語が長文の中に出現すると途端に意味がわからなくなる。
ここで初めて、学校で学ぶ教科としての英語が大切になってくる。
会話もこれと同じで、とにかく口に出して意思を伝えることが大事だと思う。
しかも、しばらくすると、やはり単語力不足や文法力不足に苦しむようになる。
いずれにせよ、学校で学ぶ教科としての英語が悩みの種になるのは、英語を使い始めてからある程度時間が経ってからなのである。

念のため断っておくが、僕は教育評論家でも教師でも、学校関係者でもない。
あくまで一般人として感じたことを述べているまでである。
ただ少なくとも実践したいのは、

・外国人が話しかけてきても、逃げないで文法や発音が崩壊したクソみたいな英語で対応すること
・僕の子供が英語の成績で悩んでいるときには、「全く気にすることはない」と声をかけること

である。
子供が大きくなるころには、教科としての英語の概念が大きく変わっているかもしれないけど。

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