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日本は優しすぎるのだろうか

昨日、NHKのニュースで、「外国人労働者に対する自治体の窓口設置が、4/1に間に合わないんじゃね?」という話題が取り上げられていた。

このニュースには、以下の記述がある。

原則として11の言語に対応することとされているんです。ネパール語、インドネシア語、ポルトガル語、スペイン語などで、特に地方の自治体では、通訳を探すのが難しい言語もあるでしょう。

なんと、11もの外国語が必要らしい。

正直な話、外国人対応窓口ではせいぜい英・仏・葡・西・中・韓の6ヶ国くらいがあれば十分じゃないかって思う。
それを超えて11カ国語対応とは、これも「おもてなし」精神が染みついた結果なのだろうか。
将来的に受け入れる外国人の国籍が変わったら、最終的に20カ国語対応が必要になりそうだ。
日本の行く末がかえって心配になってくる。


海外でよく聞く話で、「移民=その地の言語が話せて当たり前」という図式がある。
特に過去に植民地を持っていた国では、元々植民地だった国から流入してくる移民があまりにも多いため、移民局による審査がかなり厳しいらしい。
彼らはその国の言語が話せるわけだから、それ以外の言語ができない人間までホイホイ受け入れていたら、大変な移民の数になってしまうだろう。
規制を緩くしてしまえばその分大量に来てしまうのだから、「言語必須」としたくなるその気持ちもわかる。

たまに「憧れの海外移住生活」と謳った番組があるが、正直そんなに甘い話ではないと思う。
日本語窓口を持った自治体など、海外では数えるほどしか存在しないだろう。
だからこそ、上記の図式のように現地語の習得が重要、というか長期滞在には必須である。


もう一度目を国内に向けてみる。
外国人労働者を受け入れるということは、もはや移民を受け入れることに近いだろう。
ところが彼らは、上のニュースであるように、あたかもお客様のように彼らの言語で対応される(大げさな言い方をすれば「もてなさ」れる)。

そして、社会の方向性がそうなってしまったから、誰も「日本語できない人はお断り」と声を大にして言いにくい。
それは観光客を受け入れる姿勢にも近しいものがある。


自分は保護主義思想の持ち主ではないことは断っておくが、いわゆる難民でもない彼らを必要以上にもてなすことが、果たして彼らのためになるのだろうか。
それに、受け入れる側のこっちばかりが様々な対応で既に疲弊してしまっているのも、なんだかおかしな気がする。
(言ってしまえば、壮大なバウンダリーオーバーである)
それに、彼らは彼らで自分たちでコミュニティを作り、自助の精神で苦境を乗り切るのではないだろうか。
だからこそ、全国各地に「中華街」があるのだろうし、新大久保があったり、西葛西が「インド人の街」として注目されたり、「ワラビスタン」という言葉が生まれたりするのであろう。


「貴重な人材」としての外国人は、なんだかスポーツチームの助っ人外国人のようだ。

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(この話、難民だとまた別の話になる。彼らは保護されるべき立場であるので、彼らの言語で対応する必要があるだろう。今ヨーロッパでは、その難民が増えすぎちゃっていろいろと問題になっているのだが)

(でも一方で、日本に来るのは難民ではなく、働き手である。「生活に困らない程度の日本語が出来て然るべきではないか」と思うのは、間違っているのだろうか。少なくとも、自分たち日本人が海外に働き先を求めた場合、現地語か最低でも英語ができないとお話にならないだろう)

(外国人労働者の大量受け入れを「現代の徴用工」と見れなくもない。戦時下の労働環境よりは遥かに良いだろうが、文化的・言語的な苦痛は、それほど当時と変わってはいないのかもしれない。だって日本人にとっても過酷な労働環境が蔓延っているわけだし、日本人がやりたがらないような仕事を外国人で賄おうとしているのだから、本質的にはあまり変わらないのかもしれない)

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(昨日のnote( https://note.mu/dachiyo47/n/n04dd8b876902 )のおかげか、その日の夜くらいから、みるみると書く意欲が湧いた。最初の1歩って、何をするにも大事)

#日記 #コラム #エッセイ #雑感 #外国人労働者 #時事問題 #おもてなし

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