ハロウィンに成人式を重ねる

例えば、仮装している者たちで賑わう渋谷のスクランブル交差点で、イスラム武装勢力の格好をしてエアガンを空中にぶっ放したら、群衆は逃げまどうだろうか。

冗談はさておき、ここ数年(十数年?)で、ハロウィンの騒ぎは過激さを増しているように感じる。
とあるキリスト教徒の多い国でのリアルハロウィンを経験している自分からしたら、その過激さには違和感しかない。
純粋なキリスト教徒から日本の乱痴気騒ぎを見たら、彼らはどう思うのだろう。


この過激さを増す騒ぎを見て、ふと成人式のことを思い出した僕がいる。

「一部の地方」を除いて、成人式で騒ぐ若者は減っていると感じるが、昔はニュースでよく取り上げられていたように、それはそれは酷かった。
どれくらい酷かったかの描写は割愛するが、ゴールデンタイムのニュースで取り上げられるくらいだったのだから、相当なものだった。

でも、当時成人になっていなかった僕には、そのニュースが報道される必要性を感じなかった。
「成人式で成人が暴れる」
この事実について時間を割いて知らしめることで、受け手側にどうしてほしいのか、その意図が全然理解できなかったし、
“大人”たちの醜態・暴挙を見たところで良い感情なんて湧くはずもなかった。
人々は、慣例的に続いてしまっている成人式を辞めたかったのだろうか?

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ここ数日、連日のようにハロウィンのニュースが報道されている。
冒頭にも書いたように、このニュースを見るたび、成人式を思い出す。
それは成人式の主役と同世代の醜態を見せられる不快感が共通しているのではなく、もしかしてニュース報道によって過激さが助長されているのではないかという、違和感のような、矛盾を感じるからだ。
ハロウィンを報道することによって、「渋谷には近づかないようにしましょう」「あなたはこうならないように自制しましょう」と報道機関は言いたげだ。
ところが、反対に自己顕示欲の強すぎる連中を掻き立てることになっているような気がしてならない。
あの騒ぎに加わりたい、一緒に騒ぎたい、目立ちたい…
この構図が成人式とソックリに感じられるのである。


最近になって成人式の騒ぎが収まりつつあるのは、もしかしたら報道の方向性が変わりつつあることも要因かもしれない。
ここのところ成人式関連のニュースといえば、騒ぐ“成人”よりも、歌う市長や着物レンタル業の詐欺事件など、おおよそ騒ぎと無関係のものが多い。
「主役たち」は、それらに話題を奪われた格好だ。
どんなに騒いでも、大して注目されなくなってしまった。

もし上記の仮説が正しければ、ハロウィンも報道しない、もしくは全然別の話題に焦点を当てれば、いくらか騒ぎが沈静化されるかもしれない。
目立ちたい連中は無視されるのが1番嫌いなはずだ。


そして最後に渋谷に残るのは、純粋にハロウィンを楽しむ聖人たちと、いつまでも間違った目立ち方をしようと街を彷徨う、さながらゾンビのようなハロウィンの亡霊だろう。

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