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noteがくれるものは?を考えた結果、私はnoteとこう向き合っていこうと思う。

なんだかnoteを書いてみたい。頭じゃなくて心がそう言ってる気がする。あるいは、今noteを書いていないことへの危機感かもしれない。自分のやってきたことがパラパラと消えていくことへの警報。
「消すな〜残せ〜。」

一体noteに何を残せばいいんだろう。noteとどう向き合えばいいのだろう。noteを始めるにあたりずっと考え続けて、見えてきたことは2つある。

1つは、これは超飛び級の出会いを生むかもしれないということ。noteに書くことは、単なる出来事ではなく、内にある想いの部分だと思う。「最近これについてすごくこんなふうに思った!」とか「こんな体験で心が揺さぶられた!」とか。そんな内側をのぞけるのが、note。
だから、好きなものとか仕事の話とか、そうじゃなくて、最初から深いところの”想い”でつながる。「同じだね〜。」でとどまらない、「わっかるぅぅぅ〜…!そう、それなんだよ!」が生まれる。自分の理解者であり、同じ経験をした貴重な仲間。あるいは戦友かもしれない。そんなことが起きてくれると、自分が大切にしたい人がどんどん増えていくんじゃなかろうか。それはすごく幸せな気がする。

1つ目に気づいたこと。noteは最初からラスボス。

2つ目に思うのは、noteは自分を形作る補助をするのだということ。逆説的だが、自分をnoteに表すのではなく、noteに残したことが自分を表す。これは1つ目にもつながる話。
最初は「キャンプ系」とか「人生を旅する男」とかよくわからんけどそんな感じのはっきりした一つの属性・テーマが不可欠だと思っていた。あなたは何者か、に答えるものが。そしてそれは他に負けない強烈な個性を表したものだと思い、探し続けていた。でも例えそれがあったとして、それは自分の一部分だけを引っ張り出して見せているだけにすぎない。てことは、その一部分で「私はこんな自分です!」というのを頑張って説明しようとしても、結局それはその属性を通して見た自分でしかない。

なんかそれじゃないよな。それはもういいでしょ。だって、何者かであり続けるのは、疲れる。ある本が言っていたのは、周りに合わせて「私もこんなキラキラした自分なんだ」というのをアピールするのではなく、等身大のただそのままの自分として存在することが認められているのが、well-beingなSNSの使い方だと。
だから、自分が日々の中で思ったことや感じたことを、ジャンルは問わずにnoteに写していこうと思う。その歴代のnoteたちを見ていったら、自分がどんな人かわかりそうじゃない?
それを見て、だばって人おもしろいなと思ってくれれば、それでいいのよ。

2つ目に気づいたこと。私が先かnoteが先か。

さあこれからは、今日という日に自分に起こったこと、感じたことがnoteとなって形を持つ。そうして積み上がったnoteが自分の姿になる。例えば、誰かがその一冊をひょいと盗み見し、そんな誰かと今日は仲良くご飯を食べている。
そんな期待でnoteを始めます。迷いながらの毎日で、これが一本の支え柱になるように。

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