他者の多様性への寛容さは、自分に対する寛容さから生まれる
自分の中の多様性を受け入れなかった結果
昨日のnoteを書いている間に考えた「もう一つのこと」について。
昨日は違和感を育てるのを辞めることは「自分を殺すこと」と書いた。そのことを更に言い換えるなら、(違和感を育てるのを辞めることは)「自分の中の多様性を受け入れないこと」だと考えた。
みんな本来は多様に発想し、自由に生きたいと考えているのではないだろうか。それでも何らかの理由で、自分を画一的な指標で評価し、「自分の中の多様性」を受け入れずに生きている。
今では「多様性のある社会」、「ダイバーシティ・マネジメント」といった言葉をよく聞くようになったけれど、普段生活をしている限り「他者の多様性への寛容さ」があるかと言われると、僕は「まだまだ」だと思う。
じゃあ何が原因なのかと考えてみたのだけど、それは上述の通り(社会を構成する一人ひとりが)「自分の中にある多様性を受け入れていないから」なのではないか。
その結果、彼らは他者に対しても同調を求める。
「私も我慢して生きているんだから、あなたも我慢して生きなさい。」
「これはあなたの為を思って言っている。」
(往々にしてこういうことを言ってしまう人は、「自分のエゴに無自覚」であることが多い。そしてこの「無自覚である」ということは、一番質が悪いとも思う。)
みんながこういった考え方では、いつまでたっても「他者の多様性に寛容な社会」はうまれないと思う。
自分の中の多様性を受け入れること
じゃあどうするのか。
それは言うまでもなく、一人ひとりが「自分の中の多様性を受け入れること」だと思う。たったこれだけ。
ありのままの自分を受け入れ、肯定することができてはじめて「ありのままの他者に寛容になれる」のだと思う。
自分に優しくなれる人が、他者に優しくなれる。
自分に誇りを持てる人が、他者に誇りを持てる。
これらと全く同じロジックだと思う。
肩の力を抜いて
もう時代も変わった。ガラリと。
それはゲームのルールが一気に変わるようなものだ。
みんないい加減、もっと自分を大切にすれば良いのにと思う。
肩の力を抜いて、やりたいことをやる人で溢れる社会になったらどんなに素敵だろうか。
それが楽ではないのはわかっている。
でも、その方が楽しいのは間違いないとも思う。
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