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福永武彦『愛の試み』を読み直す:愛することの更新

クリスマス・イブだから、というわけでもないのだけれど、週末にあらためて『愛の試み』を読んだ。学生時代に福永武彦と出会ってから、「人はみな孤独。お互いのことはわからない。だからこそ、理解しようとする試みが愛するということ」と考えてきたのだけれど、今読み直すと、後半部で少し都合のよい読み飛ばしをしていたと痛感した。今年の個人体験のひとつの総括としても、書き留めておきたい。

福永武彦の『愛の試み』は思索の記録というだけではなく、思索と試論的小説を繰り返す構成で、第一に作品の構成がきわめて秀逸である。しかし、その挑戦的な構成もさることながら、愛を段階的に分解している分析が白眉である。亀井勝一郎よりも倉田百三よりも、僕が福永を好きな理由はこの作品と早く出会ったからだろうと思う。

ここに無理にまとめようとは思わない。なぜなら、他でもない福永自身が観念的になりすぎぬようにと試論に掌編を添えているから。ある種の個人的なメモという程度に抜粋を集合させるが、それだけでも示唆に富んだ文の数々である。

https://www.shinchosha.co.jp/book/111506/

引用は新潮文庫。昭和50年から版は変わっていない。

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序盤からすごい。

他者の自分への愛は、それが小さいと感じられれば感じられるほど、大きく眼に映って来る。その時、人は他者の眼で自分を見ているのである。
内なる世界が単なる孤独の代名詞でないためには、人は自分の眼で内部を見詰めなければならぬ。愛する事の方が愛される事よりも本質的に大事な点を見抜かねばならぬ。(p.18)

次。これは初恋に限ったことではなく、関係の初恋性と読み換えられる。皆がドン・ファンではない。

初恋というものが観念的なのは、孤独からの初めての脱出が、多くこの愛するという抽象作用そのものを目的として、対象が肉体としてよりも精神として考えられていることの中にその原因を持っていよう。(中略)彼は自己の孤独を代償として、相手の孤独を獲得したいのだ。自己の孤独を恐れるが故に、相手の孤独によってそれを豊かにし、自己の内部の空白を埋めたいと願うのだ。(pp.53-54)
愛することの純粋な靭さといったものが、極めて容易に孤独から愛へと自分の魂を移向させていたように思う。(中略)理性とか、俗習とか、虚栄心とかに邪魔されることもなく、自我の命じるままに、愛を愛として信じることが出来たからである。(p.55)

続いて、ここもクリティカル。冒頭で言及した「他者を理解しようとする姿勢」は、自己の孤独を埋めようとするエゴによるものではないかと疑わねばならない。

愛は他者のためのものであって、決して自己の孤独を埋めるためのものではない。他者からの愛によって、この孤独が埋められるとは限っていない。それはプラスとかマイナスとかいうことではない。(p.61)
愛することは、相手の存在を意識することではなく、相手と同時に自己の存在をも意識することだ。存在というのは、言い換えれば孤独であり、相手を肉体的精神的に所有するということがあやまり易いエゴイスムであるのに対し、愛している間にも自己の孤独を意識することは、正当なエゴの作用なのである。自己を忘れてまで愛するというのは単に言葉の綾であり、人は決して自己を忘れることは出来ないし、また忘れたからといってその愛が美しいとは限らない。(p.82)

愛の試み。

人は遠くから恋人を眺めて、幻視的な夢想に沈むことで満足するか、それでなければ自己の孤独を一層苦しくする危険を冒してでも、愛を試みるかしなければならない。試みとはためしにやってみるということではなく、そこに自己の危険を賭けようとする意味である。(pp.82-83)

理解と愛を混同してはならないこと。男女の友情について。

人は近似値的に理解し得るだけだし、(中略)理解が愛の前提となることはないので、理解は理解であり、愛は愛なのだ。(中略)理性と感情とが相互に許し合った場合として、最も理想的な愛だということが出来るだろう。異性間に友情があり得るかどうかという問題は、それが愛を目的とせず、理解のみを目的にした場合には、充分に可能だろう。(p.87)
愛を望んだにも拘らず理解のみを得られたとしたならば、その友情は単に愛の代用品というにすぎぬ。(中略)愛のない理解があるように、理解のない愛だって少なくはない。この二つを同時に望むことは、謂わば贅沢な望みである。(p.87)

孤独の上に成り立つ内面的な姿勢が愛であること。

愛というものは、人が対象を決定し、その相手を愛すると自分に誓った上からは、その愛がどのような結果を招こうとも、それは彼自身の責任で、相手の責任ではない。(p.150)

そして、結びへ。

「夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず。」
僕は「雅歌」のこの言葉を好む。これは人間の持つ根源的な孤独の状態を、簡潔に表現している。この孤独はしかし、単なる消極的な、非活動的な、内に鎖された孤独ではない。「我心の愛する者をたづねしが」――そこに自己の孤独を豊かにするための試み、愛の試みがある。その試みが「尋ねたれども得ず」という結果に終わったとしても、試みたという事実、愛の中に自己を投企したという事実は、必ずや孤独を靭くするだろう。(p.155)

「夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず。」

一年を終える前に、あらためてこの言葉に触れて得るものが多かった。理解しようとすることが愛である、という認識は惜しかった。ほぼ正解であるけれど、それが自己の孤独を埋めようとしていないかと自問することが前提であることを抜きにしては成立しない。

こんな風に「愛すること」の更新をした。愛する姿勢なんて簡単に変わらないのだけれど、自己の孤独を埋めようとしないこと。一歩、実存に立ち戻ることが今の自分には必要なよう。

相手の孤独を真に理解することは、自己の孤独を理解することと同じであるから、自己の孤独を埋めようとしたなら、相手の孤独を理解することはできない。それほどまでに愛の中に自己を投げ打てるだろうか。あるいは打てただろうか。

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