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明〜ジャノメ姫と金色の黒狼〜第9羽 汚泥(8)

 アケは、草の上に座り込んで竜魚によって荒らされた重く暗い空を見つめていた。
 足を数歩伸ばせばそこはもう霧に覆われ、地面すらも見えない断崖絶壁。岩壁にぶつかった壁が舞い上がり、アケの真っ直ぐな長い黒髪を掻き上げる。
 アケの膝の上ではアズキが着物の端を噛んで力一杯引っ張っている。崖から飛び降りるとでも思っているのだろうか?
 アケは、苦笑を浮かべてアズキの頭を撫でる。
「大丈夫だよ。そんな事しなくても。私は自分では死ねないから」
 アケに頭を撫でられたアズキは、心配そうに見上げる。
 そのアズキの視線が動く。
 大きく風を打ち付け、しなる音が耳に届く。
「アケ!」
 必死な声でアケの名を呼ぶ。
 アケは、首をゆっくりと振り向く。
「ウグイス・・・」
 そこに立っていたのは黄緑色の髪と両腕に同色の翼を持った少女、ウグイスが立っていた。
 竜魚に散々打ちのめされ、輝くような黄緑色の羽は痛み、肌の至る所が擦れて、切れて血で赤く染まる。骨も何本か折れているかもしれない。
 しかしウグイスは、安堵した表情でアケを見る。
「良かった・・アケ・・・」
 ウグイスは、目を潤ませて微笑む。
 しかし、アケは、彼女を蛇の目で一瞥しただけですぐに顔を伏せてしまう。
「・・・何しにきたの」
 身が切れる程に冷たく、重い声でアケは言う。
 ウグイスは、心に痛みを受けながらもそれを飲み込み、口を開く。
「迎えにきたんだよ。当たり前でしょ?」
「・・・なんで?」
 アケは、顔を上げない。
「みんなが心配してるよ。私だって・・・」
「そう・・・ごめんね。心配かけて・・」
 しかし、アケは顔を上げない。
「王だって凄く心配してる」
「嘘だ!」
 アケは、顔を上げて叫ぶ。
 ウグイスは、身体を小さく振るわせ、黄緑の瞳を大きく開く。
「嘘だ!嘘だ!嘘だ!」
 アケは、何度も何度も叫び、否定する。
「嘘じゃないよ!現に王は・・・」
「じゃあ、何で主人じゃなくてウグイスが来たのよ!」
「それは・・・」
 ウグイスは、喉を詰まらせる。
「きっとアケがどこにいるか分からなくて探してるのよ。きっと、森の中に・・・」
「鼻の良い主人が?そんな訳ないじゃない」
 アケは、馬鹿にしないでと言わんばかりに顔を歪める。
「嘘じゃない。こんな生臭い臭いの中じゃ流石の王だって・・」
 しかし、アケにはその意味が理解出来てなかった。
 人間のアケに取ってはこの臭いはそこまでの苦ではないのだろう。
「・・・じゃあ、そう言うことでいいよ」
 そう言って再び顔を背け、俯く。
 やはりいつものアケじゃない。
 利発なアケならすぐにウグイスの言った意味を理解してくれる。それなのにこんな単純なことも飲み込めないなんて・・・。
「ごめんね・・・ウグイス・・」
 アケは、唐突に謝る。
 ウグイスは、驚きに黄緑の瞳を揺らす。
 何で?アケが謝ることなんて一つもない。
「ウグイスが私に嘘つくはずない、揶揄うはずない、そんなことは分かってる・・分かってるの・・・」
 アケは、膝を立てて顔を埋める。
 膝から転げ落ちたアズキが身体をら立て直し、不安げに見守る。
「でも、ダメなの。あの言葉がずっと頭に張り付いて離れないの」

『王に嫌われちゃうよ』

「主人は私の全てなの。主人のお陰で私は今ここにいるの。主人が闇の中を歩いていた私に光を与えてくれたの。主人に嫌われたら、捨てられたら私は生きていけない。でも、私は自分の意思で命を断つことは出来ない。この苦しみを、悲しみを永遠に背負って生きてかなきゃいけないの。そんなの嫌だ・・嫌だよ・・」
 アケは、深く身を縮こませ、身体を震わせる。
 そして泣きながら小さく呟く。
「主人・・・」
 ウグイスは、思った。
 ここにいるべきは自分ではないのだ、と。
 自分ではアケの心の奥に湧き出てしまった汚泥を拭うことは出来ないと・・・。
(でも・・・それでも・・・)
 ウグイスは、決意する。
 黄緑の瞳で真っ直ぐアケを見据える。
 呼吸をゆっくりと整え、小さく縮こまって子どものように泣き続けるアケに近寄る。
「アケ・・」
 ウグイスは、アケの前に来るとしゃがみ込んで卵を抱えるように羽根に覆われた両腕でアケを抱きしめた。
 アケの蛇の目が大きく震える。
「アケは、もう私の言うことなんて信じてくれないかもしれない。でも聞いて・・」
 ウグイスは、大きく息を吸って吐き出す。それに合わさるように黄緑色の目からうっすらと水の膜を張る。
「私は、アケのこと大好きだよ」
 アケの身体が大きく身動ぐ。
「アケは、きっと私に好きって言われても嬉しくないかもしれない。アケが好きと言って欲しい人は私じゃないから。でも、私はアケのことが好き。いつも明るいアケが好き、料理の上手なアケが好き、誰に対しても・・自分を蔑んでいた国や会ったこともない青猿様の子どもたちまで気にかける優しいアケが大好き」
 ウグイスは、ぎゅっとぎゅっとアケを抱きしめる。
 自分の思いがアケの心の奥まで届くように。
「アケがもし猫の額を出ていくと言うなら私も一緒に行く。これから先、アケを貶したり虐めたりする奴が現れたら私の全てを持って守る。世界中が敵になっても私はアケと一緒にいる。だって・・・」
 アケの頬に温かいものが落ちる。
 アケは、顔を上げ、蛇の目を向ける。
 ウグイスは、泣いていた。
 綺麗な顔をくしゃくしゃに歪めて泣いていた、
 アケの蛇の目が大きく見開く。
「アケは・・・私の大切な友達だから・・・」
 ウグイスは、アケをぎゅっとぎゅっと抱きしめる。
「私が一緒にいるから。ずっと一緒にいるから・・だから・・いつもの元気なアケに戻って・・・」
 アケは、力のない顔で泣いて訴えるウグイスを見る。
 ピチョンッ。
 アケの心の奥底に積もった汚泥に温かな雫が落ちる。
 それはアケの心の汚泥を消し去りも掻き出したりもしない。
 しかし、静かにゆっくりと染み込んでアケの汚泥の底に隠された心に触れる。
 アケの蛇の目がウグイスの顔を映す。
「お願い・・アケ・・アケ・・アケ・・」
 ウグイスは、嗚咽し、涙を流しながらアケの名を何度も呼ぶ。
「ウグ・・イス・・」
 アケは、蛇の目でじっと泣きじゃくるウグイスの顔を見て、細く、長い指でウグイスの滑らかな頬に触れる。
 ウグイスは、温かな感触に驚くも、それがアケの指だと気づき、ウグイスは微笑んだ。
 その時だ。
 大地が激しく揺れる。
 地面が波打ち、ウグイスとアケの身体が浮き上がり、アズキがおにぎりのように転がる。
(えっ⁉︎)
 ウグイスは、何が起きたか分からないまま視線を縦横に動かし、状況を把握しようとする。
 そして絶句する。
 青と赤の巨大な壁が激しく弾けバウンドしながらアケとウグイス、アズキのいる大地を叩きつけ、揺らし、ひび割れさせる。
 ウグイスは、憤怒と憎悪の目を青と赤の壁、2匹の竜魚の腹に向ける。
「邪魔するなと何度言えば!」
 ウグイスは、怒りの声を荒げ、両手に水色の魔法陣を展開する。
「アズキー!」
 アケの叫び声が聞こえる。
 その声に魔法への集中が途切れ、魔法陣が消える。
 ウグイスが顔を向けると龍魚の振動に耐えられなかったアズキが地面を転げ、岩壁から落ちそうになっているのを手を伸ばして捕まえようとするアケの姿が見えた。
 ウグイスの背筋に寒気が走る。
「アケ!」
 ウグイスは、翼を広げ、アケの元に飛ぶ。
 アケの手がアズキの前足を掴む。
 しかし、振動と衝撃で足場が震え、アケはバランスを崩し、そのまま岩壁に身を落としそうになる。
「あっ・・・」
 アケの口から小さく声が漏れる。
「アケ!」
 ウグイスの叫び声が聞こえる。
 アケの蛇の目が声の方に動く。
 ウグイスの黄緑色の羽毛に覆われた手が伸びてアケの手を掴む。
「アケ・・!」
 ウグイスの顔に安堵が浮かぶ。
「ウグイス・・・」
 アケは、呆然と呟く。
 衝撃が2人を襲う。
 竜魚の身体に激しく打ちのめされて砕けた身の丈ほどある大地の破片がウグイスの身体にぶつかる。
 ウグイスの身体の中で鈍い音が響く。その後に襲ってくるは激しい痛み。
(えっ?)
 ウグイスは、黄緑の羽毛に覆われた右腕があらぬ方向に曲がっているのを見た。
 あまりにも現実味のない痛みを伴う光景。
 カクンッと身体が傾く。
 浮力を失ったウグイスの身体は、アケとアズキと共に岩壁の下へと落下していく。

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