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ジャノメ食堂へようこそ!第4話 雲を喰む(8)

 濃厚な香りが草原中を駆け巡り、オモチの鼻と胃袋を刺激し、涎が溢れ出る。
 お湯の煮込む音が虫の囀りのように心地良く、香りと共に漂う熱が肌を優しく温める。
 アケは、アズキの背中に置いた大鍋をゆっくりゆっくりかき混ぜる。中のものが崩れないように火加減し、味が染み込むように丁寧に。
 アズキは、自分の背中から舞い降りてくる香りに酔いしれて幸せそうな顔をしている。
 食欲とは縁がない家精シルキーですら窓から料理するアケを見下ろして喉を鳴らしている。
「ジャノメ〜」
 涎が口から溢れるのも気にせずにオモチが口を開く。
「まだ、食べれないのお?」
「もう少しお出汁が出ると思うので・・」
 アケは、かき混ぜるのに集中して振り返らない。目を逸らして煮崩れしたら意味がない。
「それにまだ彼が来ない」
 アケの脳裏に寂しそうな表情を浮かべて去っていくぬりかべスプリガンの姿が浮かぶ。
 彼にこれを一番最初に食べさせないと意味がない。
 これは彼の夢なのだから。
「ジャノメー!」
 空から元気な声が降ってくる。
 ウグイスが緑の翼を大きく羽ばたかせて降りてくる。
「お待たせってうわぁ!」
 ウグイスの可愛らしい鼻腔が大きく動く。
 漂う濃厚な香りに意識が飛び、食欲が浮き彫りになる。
「なに・、この香り・・」
 今まで嗅いだことのない胃袋を直接刺激するような香り。ウグイスは口の中に涎が溢れてくるのを感じ、飲み込んだ。
「ウグイス・・彼は・・?」
 振り返りはしないが蛇の目の端で彼が一緒にいないことが分かり不安になる。
 それに気づいたウグイスは涎を飲み込みながら口の端を釣り上げる。
「もう来るよ、ほら」
 ウグイスは、視線を動かす。
 草原の奥に二つの月が現れる。
 月明かりに映されたその大きな輪郭から醸し出される威厳と気品、洗練された所作のような無駄のない動き。
 しかし、そこから漏れ聞こえる声だけは品からまるで遠い、喧しいモノだった。
「離せい!離しやがれい!」
 白蛇の国で言うべらんめい口調でその声の主は叫んでいた。
「主人・・」
 アケは、呆然と呟く。
 現れたのは月のような黄金の双眸を持った金色の黒狼。 
 そしてその口に咥えられ、暴れているのは・・。
「離せ!離しやがれ!王!」
 ぬりかべスプリガンだった。
 黒狼は、黄金の双眸を顰めるとぬりかべスプリガンをアケ達に向かって放り投げる。
 あまりに重いぬりかべスプリガンの身体はそのまま草に埋もれ、土に沈む。
 地面を揺らす衝撃にアケ達の身体が一瞬、浮かび上がる。アケは慌てて鍋が落ちないよう押さえる。
「なんのつもりだ!王!」
 ぬりかべスプリガンは、身体を起こし、黒狼に抗議の声を上げる。
 人間なら顔を真っ赤に染めていることだろう。
「いくら俺らの主だからってこんな傍若無人が許されると思うなよ!」
 ぬりかべスプリガンは、重い身体を起こすと今にも殴りかかろうとするように両腕を上げる。
「そうなのよね」
 ウグイスがそっとアケに近寄って涎の溢れた口で耳打ちする。
「私も王が急に現れておっちゃん連れて行った時はびっくりしちゃった。いつもならこんなことしないもん」
 黒狼は、怒り宣うぬりかべスプリガンを無視して黄金の双眸をアケに向ける。
 月のような黄金の双眸。
 しかし、その目に見られても恐怖は感じない。むしろそこから滲み出てくるような優しさが月光のようにアケの心に染み込んでくる。
「作れそうか?」
 黒狼の言葉にアケは鍋を見る。
「はいっもう出来ました」
 アケは、口元に小さく笑みを浮かべる。
 しかし、黒狼は不機嫌そうに黄金の双眸を細めた。
 アケの背筋に冷たいものが走る。
 何か間違えてしまったのだろうか?
「お前の夢は作れそうか?と聞いている」
 ・・・えっ?
 アケは、蛇の目を震わせる。
「どうして・・・」
 どうしてそれを知ってるの?
 しかし、黒狼はアケの疑問には答えず踵を返す。
「足掻いてみよ」
 そう言い残し、森の方へと去って行った。
 アケは、呆然と黒狼の去った森を見た。
「王・・どうしちゃったんだろ?」
 ウグイスは、訳が分からないといった様子で首を傾げた。
「おいっふざけんな!」
 ぬりかべスプリガンが怒鳴る。
 顔面が割れんばかりに歪む。
 いや、実際に顔の至る所に小さな亀裂が走っていた。
 最初に会った時にはなかったはず、とアケは訝しむ。
 ぬりかべスプリガンは、蛍のような目を滾らせ、アケ達を睨む。
「テメェらこんな真似してただてすむと・・・」
 しかし、言葉を言い終える前にぬりかべスプリガンから怒りが消える。
 草原を走る香りがぬりかべスプリガンの固い鼻に入り込み、怒りを覆い尽くす巨大な欲を起こす。
 食欲を。
「この匂いは・・・」
 ぬりかべスプリガンは、呆然と辺りを見回す。
 アケは、お腹に両手を当てて背筋を伸ばす。
「お食事を用意しました」
「食事?」
 ぬりかべスプリガンのひび割れた固い顔が歪む。
 アケは、小さく頭を下げるとアズキに向き直り、調理台に置いた大きな椀に鍋の中の物を入れる。
 香りが華やぐ。
 ぬりかべスプリガンの蛍のような目が揺れる。
 アケは、椀をお盆の上に置くと手に持つとそっとぬりかべスプリガンまで運ぶ。
「雲を用意しました」
 アケの言葉にぬりかべスプリガンは驚愕する。
「どうぞご賞味ください」

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