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「はたから見た自分」を気にせず生きる現代人

私は新しもの好きのくせに、どこか保守的なところがある。
今では多くの人が当たり前のように受け入れていることが、自分にとっては非常に違和感があったりする。
まあ昭和の生まれでございますから。

そんな自分が異質に感じるもののひとつが、ハンズフリーで通話しながら歩いている人たち。もう今じゃ当たり前のようにみなやってるけど、個人的にはいまだに抵抗感しかない。

道を歩いていると、向こうから来た人がやたら声高に、目は正面を見据えながら、独りで喋りながら近付いてくる。
これには思わずぎょっとしてしまう。
すれ違いざま、ああ、ハンズフリーで通話してるのかと気付くんだけど、はたから見て気味の良いものではない。

またある時。
代々木だったか丸の内だったか、なぜかオフィス街を歩いていた時のこと。
向こうからさっそうと歩いてくるのは、仕立ての良い上等なスーツに身を包んだ若いビジネスマン。彼もまた、やはり独りで何事かつぶやきながら歩いてくる。
ああ、この人もかと思いきや、どうも様子がおかしい。目が泳ぎ、表情にもどこか落ち着きがない。ヘッドホンやヘッドセットをしている様子もない。

こちらは完全に妄想を伴った独り言だ。理由は知らないけど、精神的に病んでいたんでしょうね。お気の毒に。

首や頭に掛けるタイプで、マイクが口元まで延びているようなタイプのヘッドセットなら、はたから見ても通話しているんだなとすぐにわかるけど、近頃はBluetoothのワイヤレスヘッドホンがとても小さくなっているので、話しながら歩いていても分からない。

ハンズフリーで話しながら歩いているだけなのか、心を病んで独り言を言いながら歩いている人なのか、判らないのはどうにも落ち着かない。

ハンズフリーで話しながら歩く人って、周りから「病んでる人」というふうに見られているかもしれない、ということに気づいていないのだろうか。

もちろん、実際に精神を病んで苦しんでいる人を悪く言うつもりはないけど、ムダに不穏な印象を周りに与える必要はないのでは。

ここで言いたいのは、今のわれわれは、「自分から見た」自分の姿はどうなのか、はたから見て、自分はどう見えているのかに、あまりにも無頓着過ぎはしないか、ということ。

別にお前に関係ないだろ、余計なお世話だと言われるかもしれない。
まわりからどう見えようとどうでもいいでしょ、と言われるかもしれない。

だけど、日本人はあれだけ「周りからどう見られているか」を気にするわりに、品の良い立ち居振る舞いや所作に気を配る人は、近年目に見えて少なくなってきているように思う。

それは貧富とか階級とか育ちの良し悪しではない。
はたから見ておかしな振る舞い、見苦しい行いはしない。それはアッパークラスであれば「品性」「慎み」であり、庶民階級ならば、「カッコつけ」「見栄」「粋」と呼ぶようなものではないのか。

「他人の目を気にしない」ことは、「他人からどう見えようと関係ない」ということではないと思う。
もう一人の自分が自分の姿を見てどう思うか、という視点が現代人には欠けているように思えて仕方がない。

つまり「自分から見た自分の姿」なんだけど、そういうのを「自己相対化」というらしい。

おそらく近い将来には、誰もが目に見えない誰かと話をしながら歩く姿が当たり前になるのかもしれない。
その時には、「今の自分の姿って、はたから見て変かも」とは誰も思わなくなるだろう。それがただ通話をしている時だけのものか、それとも今は存在しない、新しいコミュニケーション手段についてもそうなるのか。

それが当たり前になり、自己相対化なんて言葉が死語になった社会でも、きっと自分は相変わらずハンズフリーを忌避し、人とすれ違うたびに不穏な気分を感じ続けるんだと思う。

いや、その頃にはもう死んでるか。


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