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1995年1月17日

1995年1月17日午前5時46分。

あの時も確か1月17日は火曜日でした。
直前の土・日が大学入試のセンター試験で、月曜は代休、そしてその日がセンターの答え合わせを学校でやる予定だったと記憶しています。

まだ真っ暗な真冬の早朝、僕はもちろんぐっすりと眠っていましたが、突然の突き抜けるような衝撃、そして長く続く激しい揺れ。
そのとき起こっていることが夢なのか現実なのか、自分でも判断がついていませんでした。ただ、今でも覚えているのは、激しく揺られてふとんの中でうずくまっている間、僕はおびただしいほどの数の鮮やかな花を飾り付けた花電車を見ていました。
そのとき僕は本当に、「ああ、迎えに来たんや、死ぬんや」と思っていました。

ようやく揺れが収まった頃、父や母が何か叫んでバタバタとしていましたが、僕の意識はその花電車に引っ張られていました。
あれは何だったのか、28年たった今でもわかりません。

結果的に僕の家はたいした被害はなく、僕の部屋もヒーターが倒れて灯油がこぼれ、ふとんにしみ込んでいた程度でした(火が回ってきていたらとんでもなかったけど)。
テレビのニュースをつけても詳細はまだ不明で、「ようわからんけどすごい地震やったね」とまだまだのんきな段階でした。

僕は予定どおり登校しました。自転車で高校に向かっていたのですが、岸和田は城下町で古い建物も多いですから、街のあちこちで屋根の瓦が崩れて割れていたり、木造の家が少し傾いでしまっているのを見ました。

始業時間になったものの、クラスメイトは全然揃っていませんでした。地震の影響で南海電車が止まってしまっていて、電車通学の生徒が全員登校できなかったのです。
「しばらく待機しなさい」との放送があり、自転車で登校していたクラスメイトと話しながら時間をつぶしていましたが、結局休校となりました。

帰宅してテレビをつけたときから、この地震の異常さがようやくわかってきた気がします。
登校前のニュースに比べて、死者数の桁が2つ違っていました。そしてその数字は時間を追うごとにどんどん増えていくのです。

大阪南部の僕の家はたいした被害はなかったし、親族も友人もみんな無事でしたが、
テレビで見る関西の街の風景はすさまじく、
目が離せなかった、離してはいけないと思っていました。


震災の影響は大学受験にも及びました。
神戸方面の大学の受験を受けるために、振り替え会場となった京都の大学に向かうことになったり、神戸大学を志願するはずだった友達が北海道大学に志望校を変更したり、とにかく混乱の中で受験が進んでいきました。

大学に入学してからも、同じ新入生と話しているときに、何の気なしに出身地を尋ねると「神戸」と返ってきて、お互いに気まずい空気になることはしょっちゅうでした。ある程度仲が深まってからは、震災で家族や友達を亡くした話を聞くこともありました。

世間(全国)の話題が東京の地下鉄の事件に移ってしまってからも、やっぱり関西はまだまだ震災の重い空気から逃れられていなかったと思います。尼崎出身の漫才師がリリースした楽曲が大ヒットしていた頃の話です。

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やがて10年20年と時は流れ、今もたまに神戸の街を訪れると、不自然なほどに近代的できれいな建物が並ぶ街並みを見て、1995年のことを思い出します。
2011年3月11日は、大阪は揺れはしたものの首都圏ほどの混乱には至らず済みましたが、全く他人事とは思えませんでした。


そんな中、2018年6月18日に大阪府北部地震が発生しました。僕は当時、大阪市北区(震度6弱)のマンションの上層階に住んでいました。23年前を彷彿とさせる大きな揺れに僕は一人で絶叫していました。
ただ、結果的には関西全域で見ても驚くほどに被害は少なく(ゼロではないですが)、1995年の教訓に基づいた耐震補強の成果をとても頼もしく思ったのです。


そして今、意識は来たるべき南海トラフ地震にどうしても向かざるを得ません。
僕は大阪府南部のかなり海沿いのところで暮らしているので、もしも大阪湾に津波が押し寄せたらきっと…と、小さな覚悟はしているものの、いざ「その時」になれば、必死に「生」にすがるのでしょう。たぶんきっと。


とりあえず今日は、
28年前の1月17日に想いを馳せて。

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