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喫茶店が三途の川ならば 〈エッセイ〉

この文章を読んで下さっている皆さんは、飲食店で働いた経験はお持ちだろうか。

働いたことがあるという方には良く分かっていただけると思うが、飲食店で最も億劫な業務の一つに「洗浄」というものがある。文字通り、使用した食器や調理器具を洗うという単純な作業なのだが、これがなかなかに辛いのだ。

忙しければ忙しい店であるほどに大量の食器や調理器具を使うし、その分だけ洗い物は多くなる。大体の飲食店には忙しさの波があって、忙しい時間帯に溜まった洗い物を落ち着いた時間に何とか洗い切る。すると、また忙しい時間帯が来て洗い物が溜まっていく。ひたすらにこの繰り返しだ。単純作業だから飽きるし、洗っても洗っても店が締まるまで作業は終わらない。ある種の苦行である。

僕は学生時代に5年間、大手チェーンの喫茶店でアルバイトをしていた。働き始めたばかりの頃は出来ることも少ないので、必然的に洗い物に回される時間が多くなる。カップやらグラスやらグラタン皿やらを延々と洗い、無くなっては目の前に積み上げられる食器をひたすらに洗う。しまいには「飽き」を通り越して自分が何をしているのかも怪しくなってきて、行き着けば無心となりインスタントな悟りを開いたような心持ちになる。新人の頃の僕は、止めどない洗い物に流されそうになりながら、朦朧とする意識の中でこんなことを考えていた。

「賽の河原ってこんな感じだろうか」と。

「賽の河原」とは三途の川のほとりある河原で、親に先立ち亡くなった子供の魂が集まる場所だとされている。生んでくれた母親の恩へ報わずに死んだ子供はその罰として、河原の石を積み重ねて塔を作る。しかし、地獄の番人がやってきて鉄の棒でそれを突き崩すのだ。そうして、また石を積んでは崩されることを繰り返す。まさに(比べるのもどうかとは思うけど)飲食店の洗浄のようだ。有から無へ、無から有へという点では少し違うけど、根本的な構造としては似通っている。

さて、僕がなぜこんな話を持ち出しているかというと、人生はその度合いに差異はあれど、おおむね「賽の河原」のようだと考えたからだ。特別に叶えたい夢や成し遂げたい目標がある人間にはより明確だろうが、それは例えば恋愛やゲームに関しても同じことが言えると思う。

目的を達成する為には「積み上げる」こと以外に方法は無い。積み上げては蹴飛ばされ、また一から積み上げては蹴飛ばされる。その繰り返しだ。蹴飛ばすのは他人かもしれないし、社会や現実といった抽象的なものかもしれないし、或いは自分自身かもしれない。そうやって何度も積み上げては蹴飛ばされた後で、ようやくそれなりに高い塔を作ることができる。そこで満足できれば良いが、より高い塔を作りたいと求めれば、また同じように「賽の河原」を繰り返すことになる。

よほどの才能や運に恵まれた人間でない限り、作った塔を蹴飛ばされたことの無い成功者などいないだろう。「人生は生き地獄」などとのたまうつもりはないが、自分が必死に積み上げたものを崩されることには、当然として相応の苦しみが伴う。高く積み上げれば積み上げるほど蹴飛ばされた時の苦痛は増してゆき、自らの全てを否定されて内臓が踏み潰されるような気持ちになる。そして厄介なことに、蹴飛ばされたときに苦痛の少ない塔であれば、それだけ価値が薄かったということにも気づかされる。

アマチュアの物書きである僕が偉そうに言えた話では無いが、何かの作品を作ることも「石を積み上げる」という作業だ。自分が培ってきた経験と技術、有している知識や価値観や感情を丁寧に積み上げていき、崩れない様に出来るだけ高い塔を作る。そうやって出来た塔を他者や社会に披露し、それは多くの場合、様々な批判や否定によって蹴飛ばされる。或いは自分で遠くからその塔を眺めてみて、それが傾いていることに気が付いて自ら蹴り倒すこともある。

塔を崩されることは怖い。それは当たり前だ。自分が必死に作ったそれを、何処かの誰かに否定されるのだから。それでも、石を積み上げる楽しさや出来上がった塔の見栄えが良かった時の喜びは、常に蹴飛ばされる恐怖に勝るはずだ。だからこそ僕は文章を書いているし、人々は夢や目標を追い求める。そして、蹴飛ばされる恐怖が積み上げる喜びに勝った時、人々は塔を作ることを諦めるのだ。

僕が今書いているこの文章も、何処かの誰かに蹴飛ばされるだろう。それで良い、とはもちろん思わないが、文章を書く喜びはそれを否定される恐怖に勝っている。

少なくとも、今のところは。

そういったバイタリティの一部分はもしかすると、あの喫茶店の終わらない洗い物で培われたものなのかもしれない。夢を叶えたければトイレ掃除をしろ、なんていう話はよく耳にするが、時にはひたすら皿洗いをすることも悪くないと思う。

夢追い人の皆さんは、暇があれば喫茶店で働いてみてはいかがだろうか。


村井 悠                                  


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