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空間と時間の「間」

技術が語られる時、しばしば偏りのある議論がみられる。
進歩的に発展を示してきた技術が私達を疎外しているという話もあれば、自然に帰って殺生を一切許すなという話にもなる。
けれども、それは余りにも極端な話である。

過度な専門化や技術は、私達の身体を蝕んでいく一方で、その身体から離れられない存在である以上、自然からの享受を免れることはできない。決して、二元論で語ることのできない複雑さがそこにはある。

そう考えてみると、技術と自然を繋ぐ「間」として私達が存在していることにはならないだろうか。人間が存在しているということが、一定の空間を占拠していることに言い換えられる以上、自然と技術から私達を切り離すことは不可能だ。その均衡の中にあって、これまでの人間が日常を営んできたのだ。

しかし、どうしてこの均衡を保つことは容易ではないのだろうか。均衡を保つことができたなら、疎外や、公害や、ディープエコロジーなんてものは存在しないではないか。

ここにはやはり人間の発達し過ぎた「時間」の問題が介在しているように思えてならない。

人間のこの大きく発達した脳髄は、余りに過剰な記憶を有している。加速器の付いた脳は、起こり得るかも分からない未来と関係を繋いでいく。また、歴史という地層の上に立って、次々と記憶を掘り起こしながら、新たな関係を結び続けていく。こうして常に私達は分節された時間に駆り立てられている。

この悩みから救われることは到底困難であるだろう。けれども、一種の処方箋があるとすれば、「今」の中に在り続けることではないだろうか。

過去と未来は、「今」という流れの中にある。その流れが切り離されることなく、野に放った時、少しは自由になれるのかもしれない、

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