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性と政.2~ジュディス·バトラー『ジェンダー·トラブル』(青土社) 感想~

 1ではジュディス·バトラーの『ジェンダー·トラブル』の核となる考えについてまとめたが、2では横道に逸れながら、バトラーの課題についてまとめる。

1.決められた快楽の場所

身体のその部分は、ジェンダー特有の身体の標準的理想と呼応しているがゆえに、快楽の震源と考えられるのである。ある意味で快楽は、ジェンダーのメランコリー構造によって決定され、その構造によって、ある器官は快楽を感じない死んだ場所とみなされ、べつの器官は快楽を感じる生きた場所とみなされる。どの快楽が生かされ、どの快楽が死んだものとされるかは、たいていの場合、ジェンダー規範のマトリクスのなかでなされるアイデンティティ形成の合法化実践に寄与する事柄なのである。

134頁

 快楽の"場所"は、決められてしまっている。そして、その場所は殆どが性器に集中している。
 この過度な集中は、あらゆる複雑さ、豊かさを全て消し去っていく。性器に何らかの刺激さえ加えれば、私達が快楽を得られるのだという単純さの蔓延は、あり得たはずの快楽の豊かさを知らないということでもある。
 では、どのようにしてその快楽の場所は決められてしまうのだろうか。

2.身体と資本主義

欲望の戦略は、ある意味で身体を、欲望する身体に変えていくことである。事実、ともかくも欲望するためには、想像上のジェンダー規則に照らして欲望をもちうる身体要件を満たすように変えられた身体自我を信じることが必要になる。

134~135頁

 戦略的に決められた欲望のメカニズムは、資本主義的なものに非常に似ている。資本主義が作る欲望は、あるものが差異の中で価値が(あるかのように)付与されて作られる。同じ素材の商品であっても、「このブランドだから買う」というような仕組みだ。
 性器へと集中する欲望も、資本主義のなかで加速度を増していく。例えば、近年のフェムテックについて考えを巡らせてみればよいと思う。フェムテックの中には、性器に刺激を与える商品がある。女性の性の健康に寄与するという表立った戦略と、これまで男性の性的欲望を満たす、若しくは男性視点で性的消費がなされていたことへの批判という裏の戦略が伺える。
 けれども、そもそもこうした機械や商品の開発がどのような問題を生むのかは考える必要がある。開発された機械によって、人間が性器部分でしか快楽を得られなくならないだろうか。商品によって暗に「男性」を想定した欲望の解消を目指していないか。人間の欲望の解消と性の健康は、資本と機械によってしか得られないのか。(企業もその辺りは考えているかもしれないが。) 
 改めてバトラーの議論を踏まえれば、こうした試みが「性器があなたの快楽の源泉だ」という名指しと取れるかもしれない。また、根本的に資本主義の競争に勝てなかった弱者には、欲望と快楽すら許されなくなってしまうのか。

3.バトラーの課題

身体はつねにすでに文化の記号であるので、身体が引き起こす想像上の意味の境界を定めるものであるが、しかしそれ自身が想像上の構成物であることからは、けっして自由になれない。幻想でしかない身体は、現実の身体との関連で理解することはけっしてできない。(略)「現実」の境界が作られていくのは、物質的な事実を原因とみなし、欲望をその物質性の動かしえない結果とみなす、身体を自然化し異性愛化する枠組みのなかなのである。

135頁

 バトラーは、身体は常に文化の記号であるとしている。生物学的なセックスを全ての根源にしてしまう危うさは、1でも述べた通りだ。
 しかし、実際に目の前にある身体、今ここにある私の身体は、まやかしなのだろうか。「女」、「男」という身体の違いを絶対化することは確かに危ういけれども、性差を全て取り払っても身体そのものは残る。
 特に身籠る身体と身籠らない身体は性と身体における重要な視点だ。
 身籠るという経験は、何らかの身体に対する違和を意識せざるを得ないではないか。子を身籠るという特徴を持つ身体は紛れもなく「メス」の身体にあるので、そこは避けられない。(もちろん、身籠らない身体の人もいる。)恐らく、(私が事例を知らないので)「オス」の身体では経験しえないのが身籠るという経験だ。身籠ることでもう一人の命を自らの身体で感じとる経験は「オス」の身体ではなしえない。
 「私」の中に「私ではない」存在が同居しているという経験は如何に大きな影響を持ちうるのか。性を意識せざるをえない状況にありながら、「主体」の境界が崩れ去るという両義的な経験となる。
 また、身籠るという経験を経なければ、違和感を意識する必要もなく、身籠らない選択ができるという意見があるかもしれない。しかし、世の中には望まなかった身籠りもある。
 バトラーは「母になれ」という言説を撹乱しようと企るが、変えようのない身体のレベルで撹乱できない存在をどう考えるのか。撹乱されない為に、性転換手術、体外受精や異性装をすれば良いのか。それは、果たして資本主義的な欲望の発露や科学による身体の介入を維持させるのではないか。
 バトラーがジェンダーアイデンティティを撹乱することに意義を見出だしている一方で、撹乱しうる前提条件として身体への眼差しが希薄とも感じられる。身体そのものという問題は、それが卑近であればある程に大きくなってくる。どうしようもない現実の中で如何に振る舞いを実行していくか。その折り合いの中で撹乱を考えていく必要がある。

4.欲望と肉体

 個人的には、身体というよりも肉体というほうが、より具体的なこととして現れてくるので好きだ。
 確かに、法や経済や言語によって私たちの欲望は狭められるかもしれない。けれども、肉体は、結局、何かを欲望することからは逃れられない。また、欲望は"悪"と同義ではない。食事や睡眠は生命を維持させる。性的欲望の全てが支配へ向かうわけではなく、他者と繋がるコミュニケーションにもなる。
 そして、そうした欲望の"場所"としても肉体は存在している。どれだけ"場所"を離れようとしてもそこを逃れることは、つまり、死へと向かうことだ。そして、その"場所"は基本的には変えることができない。
 バトラーの実践は、そうした変えようのない肉体の上で、どう振る舞っていくのか、表面に着せられた"意味"をどう脱ぎ捨てたり着替えたりするのか。そういう問いかけの中にあるのだろう。

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