性と政.1~ジュディス·バトラー『ジェンダー·トラブル』(青土社) 感想~
近頃、あらゆる言説が飛び交い、あらゆる立場をとることが必要とされている。
けれども、心に残るこの歯痒さは何なのか。「男」の立場からの表明、「女」の立場からの表明、「当事者」の立場からの表明。あらゆる表明のなかで、何をどう考えていけばよいのか。
私は、この時代にフェミニズムの"古典"とも言われている『ジェンダー·トラブル』を読み、考えのきっかけを作ることにした。
1.バトラーの構え
ジュディス·バトラーはアメリカの哲学者で、比較文学の教鞭もとる。また、バトラーはアクティビストとして、また、いわゆる「性的少数者」の当事者として有名だ。
この書物では、フェミニズムの議論が非常に先鋭化されている。そして、この書物が出版された80年代後半から90年代前半にかけてアメリカでこれほどの議論に到達していたことに驚きを隠せない。
冒頭から既に心を掴んでくるこの一節は、この書が当時のフェミニズムの議論を冷静に見つめ、新たなフェミニズムの議論へ一石を投じようとするバトラーの構えが見える。
バトラーは、特定のジェンダーを表明する立場に疑義を呈る。
ジェンダーはあらゆる視点が絡み合うアイデンティティの要素の一つなのであって、そこにだけ結果を見出だすことは不可能だ。「女」も色々、「男」も色々、「LGBTQ+」も色々なのであって、截然と切り分けはできない。
2.「セックス」の解体
本書で幾度となく示される重要な論の一つは、"生物学的な性差"、いわゆる「セックス」の自明性を解体していくことにある。
この「セックス」という概念は、とても厄介なものだ。なぜならあらゆる結論がここに行き着いてしまうからだ。どれだけ多様な「ジェンダー」の立場を取ったとしても、「まぁ、どこまで言っても結局は、女/男なんだから。」といった結論が、"科学的な裏付け"によって証明されてしまう。
けれども、その"科学"が如何に社会的な構築物であるのか疑う必要がある。
例えば、私達の多くが信頼している数字はどうだろう。1+1=2は、果たしていかなる状況にも適応できるのか。泥団子の塊を二つ合わせれば、大きな一つになるという答えが有り得るはずなのに、1+1=2が絶対的なものと言えるのか。だから、仮説や証明の前には、「○○は△△とする」といった但し書きが必要になる。つまり、"科学"も前提となる「言語」のなかで構築されざるをえないのだ。
この脱構築的なバトラーの立場は、それまでのフェミニズムの議論を閉塞したどうしようもなさから救い出して、新たに展開することに寄与したかったのかもしれない。
3.アイデンティティは流れていく
そして、本書のもう一つの重要な論は、アイデンティティの流動性を考えることにある。
明確で固定的な「主体」というのは、常に曖昧だ。自分が自分でなくなる様な感覚と言えばいいのかもしれない。「男」、「女」、「LGBTQ+」の区別を飛び越えて、「間(あわい)」へと開かれていく感覚。愛するものを喪失した悲しみや揺らぐことのない喜びの感覚を同じ世界の中で共有することへ向かっていく感覚。
その一方で、一人一人が変えようのない複雑な個別性を身に纏ってもいる。
フェミニズムにおける連帯の運動は、アイデンティティを流動的に設定することへの寛容さを考えていく必要がある。決して、「女だけ」、「男だけ」、「LGBTQ+だけ」を言い続けて押し付けることには生じえない。
4."振る舞い"が"当たり前"になる
これまでの論を踏まえても、あらゆる"当たり前"が既に揺らいでいることは分かる。
けれども、人間は残念なことに、これまで積み上げてきたものの中でしか世界を見られない。「ジェンダー」は"当たり前"のようにあるものでなく、これまでに積み重ねられた振る舞い(パフォーマティブ)の集まりだ。
ある人間は、力強く汗を流して戦ったことで「男」と名付けられた。またある人間は、清らかに佇んでいたことで「女」と名付けられた。本来は、「男」·「女」だから振る舞うのではなく、振る舞った先に「男」·「女」が作られる。
時間をかけて蓄積されていった振る舞いは、"当たり前"に変わっていく。最早、他の可能性には目を向けることすらされなくなっていく。その方がこの世界の複雑さを考えなくて済むから。
5.性を哲学すること
「同性婚を認めることで社会が変わってしまう」というのは、あらゆる複雑さを見ないで単純に世界を見ているということでしかない。
けれども、「抑圧する多数派に対して性的少数者達は連帯しなければならない。」と一側面から宣言するだけでも単純な世界の見方をまた反復することになる。
バトラーは本書を通じてあらゆる性に関して構築されてきた言説、特に権威を持った言説の糸を解していく。その営みのなかには、「男」、「女」、「LGBTQ+」だけに限らない複雑な性の可能性へと目を向けてほしいという構えが見えている。
哲学をするということは、世界をすっきりさせて単純に見ることではないのだろう。あらゆるものには複雑さが絡まっていることに目を向けることが哲学することなのかもしれない。
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