【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第63話-夏が来る〜瑞穂の猛勉強

 夏が始まる少し前。この時期に貴志は初恋を経験したらしい。
 それはどんな人だったのか。どうして初恋は終わってしまったのか。貴志に聞きたいことは山ほどあった。しかし瑞穂にそんな時間は与えられなかった。

「福原、これ放課後までに提出してくれ」
 北村貴志が瑞穂に手渡したのは、大量に英単語が書かれた紙が5枚ほど。
「中学必修の英単語全部まとめてある。和訳して俺に返してくれ。採点の時間は高島さんにお願いして、他のことをして貰う。
 今の知識量を知りたいから、絶対に調べるなよ」
 登校してすぐに渡されて、放課後までに解け…それっていつやるの?
「休憩時間全部使えば間に合う」
 この人は鬼だ。貴志の頭に角が二本見える…瑞穂はげんなりしながらも貴志から受け取った課題をこなし始めるのだった。

 放課後になんとか間に合わせた単語テストは、7割の正解率だった。ちなみにその答え合わせ中は、理美が作った漢字テストを解き続けていた。こちらは8割方正解していた。
 理美が答え合わせをする時間は裕の出番だった。
「力と熱の項目を、俺に分かるように教えてくれ。何も見ないで、思い出せるだけで良いから」
 科目は理科だが、教えてもらうよりもハードな内容だった。瑞穂が脳みそを絞るに絞りまくって講義した内容を、裕は丁寧にノートにまとめて行った。途中で刃物のように鋭い質問が飛んでくるたびに、瑞穂は悲鳴をあげる。
 一通り話し終えた後で裕のノートを見ると、見事な資料が出来上がっていた。しかも説明不足を指摘されたところや、そもそも知らなかった場所は穴開けになっている。
「これが瑞穂の苦手な所をまとめた問題集になるから、明日までに調べといてくれ。
 明日はこれをテストにするから、サボるなよ」
 そう言って、ダッシュで職員室にコピーを取りに行く。

 裕からの課題が完成する頃には、貴志が英単語テストをパソコンで作り直していた。
「福原が暗記しないと答えられない単語はこれだけに絞られたから、明日までに調べとけ。明日もう一度テストして次の課題を考える。
 ちなみに記憶を定着させるために何回か繰り返すから覚悟したほうが良い」
 放課後を迎えてから1時間足らずで、ものすごい量の課題を出されてしまった。瑞穂は滝のような冷や汗にまみれながら、壊れたおもちゃのようにカタカタと震えていた。
 涙のちょちょ切れた表情のまま、助けを求めて理美を振り返る。
「大丈夫だよ、瑞穂ちゃん。大丈夫。
 漢字もあるから」
 理美は満面の笑みで漢字テストの解答用紙を差し出した。誤回答を書き込んだ所を赤ペンで丸で囲んだその紙をスマートフォンで撮影し、瑞穂に返したらしい。
「私も赤ペンの部分をまとめてくるから、明日またテストするね」
 小首をかしげながら理美は笑顔で告げる。
 サトちゃんって、悟志くんと喧嘩するときもこんな笑顔なのかな。
 裕の真面目な顔は柄にもなくて怖いけど、北村くんの顔はいつも怖いけど、サトちゃんの笑顔が一番怖いよ。
「瑞穂ちゃん、なんか失礼な事考えてたりする?課題の量、倍にする?」
 北村くんが鬼なら、サトちゃんは悪魔だよ。
 トホホとうなだれて、瑞穂は膨大な量の課題を受け取った。
 あれ?そう言えば、ナンちゃんは?

 福原瑞穂が半泣きで理美と裕のシゴキに耐えていた頃、南原隼人は静かに社会のテキストをまとめていた。
 3人の事だから、分かりやすくまとめた資料で効率よく教えていくのかと思っていて、自分もその準備をしていたのだ。
 まさかあんな詰め込みのスパルタ教育を始めるとは思わなかった。
「教えられて、なるほどって思ったことは、そのほとんどが分かった気になっているだけなんだ」
 貴志が低い声で瑞穂に告げる。
「福原は中学3年生の履修範囲が丸々未知の世界だから、知らないことが多すぎる」
 昨日みんなで確認した瑞穂の成績が伸び悩んでいる理由を、貴志は反芻している。
「まずは中学で習うはずのすべての言葉を、聞いたことがある状態にする。
 そのために、英語と漢字の読み書きは完璧にできないと話にならない」
 裕も理美も力強く頷いている。瑞穂はみょんみょんと漫画みたいに垂れ下がった涙が、頷いているように上下している。
「暗記だけだと脳が疲れてしまうから、オレは対話形式で理科を教えていく。
 教えられるよりも、人に教えている時の方が記憶は定着しやすいし、客観的に得手不得手がわかるから、基本は瑞穂がオレに教えてくれる内容に、質問と訂正を入れるスタイルだ」
 どうして裕まで真面目なの?救いのないような3人の勉強包囲網に、瑞穂はジリジリと後ずさる。
 それでも…それでもイヤじゃない。

 北村くんが、私のために色々考えてくれたメニューだから?

 課題は苦しい。だけどよくよく考えると漢字のテストに20分だから、理科の「力と熱」に関しては30分位で裕が資料を、まとめてくれた。
 何時間も授業でやってきた事を、たった数十分間で教えてもらえたのだ。
 これなら確かに次の実力テストまでに…。
「何としても福原を7月の実力テストまでに平均より上位まで引き上げてやる」
 貴志の言葉は、優しいはずなのに、その口元はサディスティックな笑みを浮かべていた。
「だから怖いって。
 でも、せっかく北村くんが、私のために、そう!私のために!やってくれてる事だもん。ムダにはしないよ」
 両手でガッツポーズを決めて、瑞穂は立ち上がった。教室のど真ん中なのに、なぜか崖っぷちで背後に荒波が打ち付けているように見えてしまう。

 瑞穂さん、心の声がダダ漏れだよ。裕は、やる気を焚き付けられて燃え上がる瑞穂を、眩しそうに見つめていた。
 勉強を口実に貴志と瑞穂が接する時間を確保した。貴志は引き受けてしまった以上、確実に瑞穂の成績を上げてくれるだろう。
 瑞穂の得意分野、苦手分野を分析する。その上で瑞穂の成績向上に対して、周りがどのように成長の機会を与えていけるのかを割り出していく。
 今日の課題はその第一歩だった。
 脅威となるものは今のところ、瑞穂のやる気が何に支えられているのか…。それにかかっていた。貴志にとっては不幸な話だが、瑞穂のやる気の問題に関しては大丈夫だ。
 瑞穂は貴志が勉強を教えてくれるなら、それだけで頑張れるのだから。
「昨日も言ったけど、24時間だって勉強しちゃう!」
 張り切る瑞穂を見ていると、裕も嬉しい。瑞穂の笑顔は人を元気にする力があった。
 口には出さないが、裕も何度も元気をもらっている。
 頑張れ、瑞穂…。

 少し厳しすぎたかな…。夕食の調理を進めながら、貴志は瑞穂への課題を反省していた。
 試験はある意味ではゲームと同じだ。持っているアイテムを駆使して難敵を倒す。敵によって有効な武器も違えば、張るべきトラップも変わる。
 知識量とはすなわち武器のストックを増やすこと。勉強とは、その武器をいかに有効に使うのかを学習することだと、貴志は認識している。
 福原に今足りないのは武器のほうだ。だから問題集をいくら解いても、武器が足りなくて解答を導けないし、解ける問題はすでにやらなくても大丈夫な仕上がりになっている。
 あのまま自己学習を続けていても、無駄な時間を過ごすばかりで効果は薄い。
 しかし。
「課題の量が多すぎたかも知れない」
 もしそれで瑞穂が音を上げて逃げ出してしまえば、瑞穂と距離を取ることができる。
 貴志としては先生役をお役御免になれればそれで良かったのだ。
 だけど裕も理美も課題の量には口を挟まなかった。それどころか二人が出した課題もかなり重い。
「あれじゃあ福原が潰れてしまうぞ…」
 24時間頑張る。瑞穂の言葉を思い出す。
 受験には覚悟が必要だ。ライバルたちに追い抜かれないよう量的にも質的にも自分を追い込まないといけない。その中で限界を見極めて、ギリギリのラインで学習を積み重ね、自分自身を高みへと上げていく。
 勉強は登山と同じだ。高みを目指すのに、苦痛を伴う。しかし危険を冒してはいけない。無謀と覚悟は違うのだ。
 貴志も如月中学校受験の際は、夜中に何回も目が覚めて嘔吐を繰り返していた。
 おそらく裕も、理美も、隼人だってその位の努力はしている。だから誰も止めてくれないのだ。
 嘔吐の先には行ってはいけない。判断力が落ちて理由もなく涙が出てくるようになれば本末転倒もいいところだ。
 福原はグループに溶け込んでいる。それどころかグループの中心と言ってもいいだろう。だからこそみんな忘れていないか。
 福原は3月まで公立に通っていた、普通の中学生なんだぞ。
 嘔吐の入口までで勉強の限界を見極めるなんて、できるのか?オーバーワークに気づけるのか?
 俺は、福原を潰したいわけじゃない。ただ俺への好意を逸らしたいだけなんだ。
 明日は勉強会兼お茶会でみんなが家に来る。学習用の間食メニューを考えながら、貴志は調理を終えた。
 表層心理では拒んでいても、瑞穂のことをしっかりと考えていることに、貴志自身は気づいていなかった。

 翌朝、瑞穂が学校にやってくる。修学旅行2日目の彼女と同じ顔で。
 睡眠不足を絵に描いたような顔だ。
「瑞穂、目の周りがクマ牧場だぞ」
 裕の言う通り、瑞穂の白い肌にくっきりとクマが鎮座している。
 瑞穂は無言のまま貴志に手を差し出して、今日の課題を催促すると、始業までに全部解答を済まして返してきた。
 早い。そして全問正解している。
「自分の弱点に絞ったら単語の300個位、一晩あれば十分!」
 そう言った瞬間に、瑞穂は机に突っ伏して寝息を立てる。
 貴志は忘れていたのだ。3月まで普通の中学生だった瑞穂が、編入試験に合格して如月中学校に入ったということを。
 3月まで普通の中学生だった瑞穂が、如月中学校の4組に編入した事実を。
「貴志、瑞穂のことを過小評価してただろ?」
 裕が図星をついてくる。そうか裕はちゃんとわかっていたんだ。
「今日は休憩も兼ねて、数学を教えてやろう…暗記ばかりじゃ脳が働かなくなる」
 貴志の口元に笑みが浮かんでいた。しかしそれは昨日のようなサディスティックなものではなく…。
 2年前坂木紗霧に向けていたような、優しい笑みだった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?