【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第72話-梅雨が来た〜サタデー瑞穂フィーバー

 6月11日土曜日。まだ世間に梅雨入り宣言は出されておらず、空は快晴だった。
 2年前に紗霧に告白した日付が迫っている。
 貴志はペダルを漕ぐ足にいっそう力を入れた。目の前の急坂に意識を集中し、自転車と一つになる。息は上がり、脈拍もフル回転で時を刻む。
 やがて峠に至り、景色が開けてくる。それでも足は止めない。この長い坂を下って帰らなければならない。
 大きく深呼吸して、貴志は流れる景色を堪能した。眼下に広がる自分の住む街を見下ろす。
 紗霧を失ってからというもの、貴志は自身をいじめるように自転車に乗っていた。坂道を越えるたびに胸の痛みが報われる気がして、貴志は狂ったように坂道を求め続けた。
 紗霧への想い。失われた時間。走っていれば胸の痛みは感傷ではなく、自転車のせいにできた。
 繋いだ手の温もりは今でも右の手に思い出す。あの柔らかな手の感触を忘れることはないだろう。
 だけど紗霧はもういない。「あの事件」が起こってしまったから。
 紗霧はもういない。あの日告白しなければ、そもそも好きにならなければ、紗霧はあんな目に遭わずに済んだのだろうか。
「俺のせいだ…」
 喘鳴とともに吐き出される、血の味がする後悔。それでも紗霧との時間は、貴志にとって幸せな日々だった。

 県外の峠を5つほど越えて、約100キロメートルの走行を終えた貴志は、自転車を片付けると、さっさとシャワーを浴びた。
 母が起きてくるまでに昼食は仕上げておきたい。
 汗と一緒に辛い気持ちも洗い流す。どんなに悔やんだところで紗霧は戻らない。それに今の腐った気持ちのままでは、昼から訪ねてくる瑞穂に失礼だろう。
 紗霧がいなくなってから、女子から向けられる好意はすべからく冷たく突っぱねて来た。唯一理美からの好意だけは丁重にお断りして、しかし気持ちに応えようとは思わなかったのに。
「なんで俺は、福原を拒絶できないんだ」
 紗霧を忘れようと思うたびに、えぐられていく心。その隙間にちゃっかりと瑞穂が居座り始めている気がする。
 もう恋人なんて作らないで、一人でも大丈夫なように生きていこう。そう決めたのに。
 身も心も預けられるくらいに頼れる女子は、紗霧だけなんだと思っていたのに。
 頼る?俺が福原を?頼ってると言うのか?

 気持ちの整理が追いつかず、長引いたシャワーの後で、貴志は急いで調理に取り掛かった。
 昨晩から昆布じめ風に白だしに漬け込んだ、鯛の短冊を薄くスライスしていく。ベビーリーフとトマトを添えて和風カルパッチョに仕上げ、同時に豆乳ベースの冷製スープを添える。
 朝昼兼食となる母のため、主食はパンにする。白米よりも効率よく血糖値を上げて、今日に備えてもらうために。
 食卓の準備が整って、母を呼ぼうとエプロンを外す。瑞穂が来る前に昼食は終えてしまいたかった。

 ピンポーン。エプロンをハンガーにかけると同時に、来客を告げる呼び鈴が鳴った。
 嘘…だろ?時計は11時半を指している。福原には昼からなら大丈夫と伝えていたが。
 モニター越しに確認した来客は、瑞穂で間違いないようだった。カメラの目の前で小首を右に左にかしげて、メトロノームのように時を刻んでいる。ショートの髪も頭の動きに合わせてふわふわと揺れている。
 貴志は額に手を当てて絶句した。
「俺は昼からなら大丈夫と言ったんだ」
 貴志は通話スイッチを入れて不機嫌な声をぶつける。しかし瑞穂はめげないし悪びれもしない。
「昼頃は正午を挟んだ1時間前後を含むから、今は昼だよ」
 語彙力の無駄遣い。元気よく答えた瑞穂に対して、貴志は特大のため息をついた。

 玄関のドアが開かれて、前髪で顔の隠れた少年が姿を見せた。貴志の姿を見て、瑞穂は背筋をシャンと伸ばしてたどたどしく挨拶をする。
「この度は、お招きいただき…」
 瑞穂の声が上ずっている。その言葉は途中で貴志によって遮られた。
「招いてない。福原が来たいと言ったのを承諾しただけだ。そして早すぎる!」
 早口でまくしたてられて、瑞穂は俯いてしまった。いつも明るい瑞穂の笑顔もさすがに暗転して…。肩が震えている。
 言い過ぎたか?貴志の頭をよぎるのは、彼らしくない反省。しかし。
 顔を上げた瑞穂はむしろ喜色満面だった。
「北村くんだあ!北村くんだよ〜。土曜日に北村くんに会ってるよ〜」
 冷たくあしらう姿こそ北村貴志。そう言わんばかりに感動を噛み締めている。
「優しく迎えられたら、気持ち悪くて帰っちゃったかもね」
 おいおい。貴志は頭を抱えて「早く入れよ」と瑞穂を促した。呆れ果てて何も言えない。しかしなぜだろう。悪い気分ではなかった。
 
 福原瑞穂は舞うように玄関に入ると、貴志の前で「見て見て」と言わんばかりに、くるっと一回転してみせた。
 赤茶けた明るい髪色に、明るい笑顔。柔和な心を写すように丸い瞳。ほっそりとした上半身は半袖のシャツに覆われ、ワンピースのキャミソールがスカートのように翻る。
 ふわりと漂うバラのような甘い香りが貴志の鼻腔を刺激した。それは貴志にとって一番嗅ぎたくない香りだった。紗霧と同じ柔軟剤の香り。蘇る記憶に、貴志は一瞬胸の痛み覚えたが、得意の無表情でやり過ごす。
 私服の瑞穂と会うのは初めてだった。今日の服装はいつも通りの服装なのか、それとも。
 初めて学校外で紗霧と会った日を思い出す。告白の次の日に行った図書館デート。
 あの時はトレーニング後にいつもの倍以上シャワーを浴びて、服装もギリギリまで悩み抜いたものだった。
 福原は今日の服装のためにどれだけの時間をかけたんだろう…。俺に会うためにそんなに気合を入れても仕方がないというのに。

 肩がけのバッグは重そうだ。いったい何教科勉強しようというのか。まさか帰らないつもりじゃないだろうな…。
「人の胸元をじろじろ凝視するんじゃありません!」
 瑞穂がビシッと指を突きつけてきた。いや、見てたのはバッグであって胸ではない。そう言えば嘘になるか。バッグの紐が胸の真ん中を通って、バストを強調している。
「カバンの紐で胸を強調したところで、全然無いのが目立つだけだって事はわかってるよ。
 サトちゃんだったらさぞ立派な富士山が並んで見えたことでしょうけどね…。くすん」
 瑞穂は一人でまくし立てて、一人でいじけている。
 勝手に高島さんを巻き込むのはどうかと思うぞ。それに高島さんの名前を出すと…。
「えっ!理美さん来てるの?」
 2階から悟志の声が聞こえた。慌てたように足音が響くものの、部屋からは出てこない。弟はよほどだらしない格好をしていたらしい。
「来てるのは福原だけだ。高島さんは来てないぞ!」
 焦る弟に声をかけてやる。土曜日の朝に部屋でだらだらと過ごしていたら恋人が訪ねてきた。それが糠喜びと知ると、焦る必要のなくなった悟志はストンと椅子に腰掛けて、静かになった。

 まったく。悟志もいい加減朝からビシッと決めて、自分から高島さん誘えばいいのに。高島理美の想い人は少し前まで貴志だった。それを弟の悟志はよく知っている。兄へのコンプレックスなのか、自信がないのか、未だに二人で会う時に声をかけているのは、理美の方らしい。
 会いたい時に会いたいと言える勇気も大事だぞ。
 貴志は自分のことを完全に棚に上げて、弟の部屋の方を向いたままため息をついた。

 瑞穂は機嫌良さそうに貴志の全身を眺めていた。肩甲骨まで伸びた後ろ髪を束ねて肩から前に流しているのはいつも通り。黒づくめながら、スリムフィットのシャツとスキニーパンツに包まれた全身は、前髪同様貴志の本音を全て闇の中に隠しているように見えた。それが北村貴志のイメージそのもので、瑞穂には逆に新鮮に思えたのだ。
「スリムマッチョが黒一色に揃えてると、めっちゃキマるね!
 お世辞抜きでカッコいいよ」
 言葉にしてから恥ずかしくなって、瑞穂は口元にアワアワと手を当てた。
 照れるタイミングおかしいだろ…。貴志は苦笑した。
 とりあえず福原の服装にもコメントくらいはしておくか。
「福原も脳みそと同じくらいフワフワした服装だな。まるでお花畑だ」
 褒めている要素はどこにもない。我ながら酷い一言だと思う。しかし瑞穂はなぜか嬉しそうだった。
「服の花柄に気づいてくれてありがとう。脳みそ…のところは、性格もゆるふわって褒められたと思っとくよ」
 呆れるほどのプラス思考。だが貴志が隠し持っていた真意に近い返しだった。瑞穂の緩くて柔軟な性格には、今までに何度も救われた気持ちになっている。
 福原といるときの妙な安らぎはなんだろう。どうしてこんなにも福原がいると落ち着くんだろう。
 その気持ちの正体はわからないまま、貴志は瑞穂をリビングに通した。

 ダイニングテーブルに瑞穂を座らせて、母と弟の食事をどうしようかと考え始める。
 自分の部屋で瑞穂と二人…それだけはなんとしても回避したかった。
 そんな事をしたら次から学校でどんな事を福原が口走るかわかったものではない。

 しかし貴志に悩む時間などは残されていなかったのだ。
 母がリビングに現れてしまった。立ったまま向かい合う母と瑞穂。そう言えば、二人は初対面だった。どう紹介すれば良いのか…。ただのクラスメートなどと信じてくれるのだろうか。
 その心配をする時間も貴志には残されていなかった。瑞穂を見てゆっくりと瞬きを繰り返していた母が目を輝かせた。
「きゃあ!なになに?何、このちっちゃくて可愛い子!貴志がさらってきたの?彼女?ねえ、ねえ!」
 一気にまくし立てる。貴志の返事など待たない。瑞穂も挨拶を忘れて呆気に取られている。
「すっごいフワフワの服!髪の毛つやつや!
 朝からすっごい頑張って準備したんだね!
 かわいい、かわいい、かわいいね!」
 瑞穂は顔を真赤にしている。母が落ち着きを取り戻し、瑞穂がきちんと挨拶できるまでには相当な時間を要した。
「ねえ貴志、瑞穂ちゃんちょっと借りてくわよ」
 もみくちゃにしたまま、母は瑞穂を自室に連れ去ってしまった。
「母さん、ご飯は?」
 貴志一人になったリビングに、彼の声が虚しく響いた。

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