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どうする秀秋1もうひとつの関ヶ原

 慶長五年八月十五日午の刻(午前11時)の関ヶ原(1600年10月12日)

 その時小早川秀秋は迷っていた。
東軍につくか西軍につくか。
ほぼ心の内では東軍につくと昨夜のうちには決めてはいたものの、石田三成から提示された条件は上方で2ヵ国を、更には重臣平岡頼勝、稲葉正成に10万石ずつ更に黄金3百枚ずつ配るという破格のものだった。
そればかりか秀頼が成人するまでの間関白職を務めてもらいたいとある。
これには秀秋も心を動かされた。
一方徳川方の黒田長政からの書状には西国で2ヶ国加増とある。
無論、野戦に長けた内府がよもや負けるとはおもってもいず、条件では西軍に劣るものの安全策をとって東軍につくと決めてはいたのだか…。
戦が始まってみると意外と西軍が善戦しているようである。
黒田長政5400、細川忠興5000、加藤嘉明3000の猛攻を石田勢6700は陣に籠って耐えに耐え反対に黒田を押し返している所さえある。
おそらく三成の片腕島左近率いる隊であろう。
その隣小西行長6000に対し筒井定次2800、田中吉政3000、生駒一正1800が激突。一進一退の攻防。
さらにその南の戦場西軍宇喜多秀家1万7000に対し福島正則6000、金森長近1200、古田重勝1000織田有楽400の戦い。
さらに抜け駆けして開戦の火蓋を切った徳川直臣の井伊直政3600家康の四男松平忠吉3000もその場に留まって戦っているようだ。
こちらは当初福島勢が猛然と攻めかかっていたようだかじりじりと数に勝る宇喜多の軍勢が押し返し今や宇喜多が優勢である。
石田と小西の中間に陣を敷いた島津義弘1500はじっと動かず静観している。
秀秋のいる松尾山の麓に陣を敷いた大谷吉継4100は寺沢広高2400を蹴散らし宇喜多を救援しようとしたところそれを阻止しようとする藤堂高虎2500、京極高知3000と合戦中。
そしてその藤堂、京極隊の側面を大谷勢の寄騎平塚為広、戸田重政の1500が激しく攻め立て追い散らしている。
松尾山のすぐ麓に陣取っている赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の四将総勢4200はじっと静観している。
こちらは西軍に汲みしているものの戦意上がらず敵味方不明である。
「さて、どうしたものか。」
霧の晴れた松尾山から戦場を眺めじっと考えに沈む。
遠く笹尾山の石田三成の陣所からは、再三狼煙が上り秀秋の参戦を促している。
小早川勢1万5000がどちらにつくかでこの合戦の勝敗が決まるだけに秀秋は迷いに迷っていた。
「ご注進!内府殿の徳川本陣が桃配山から前進したようで御座います!」
「なんと内府が動いたか!」
合戦の鄒勢を遠くから高見の見物と決め込んでいた徳川勢2万の前進は小早川の重臣たちにも少なからず動揺を与えた。
「南宮山の毛利はどうだ?」
「はっ。南宮山の毛利勢いまだ動く気配なし。」
南宮山の毛利勢は先陣を務めている吉川広家(3000)が黒田長政に通じていると昨夜黒田の使者が知らせてくれた。
今下山しなければ合戦に間に合わぬだろう。
あるいは秀秋のように逡巡してるのかもしれぬ。
小早川家は元々毛利一門であったが秀秋は養子の身。毛利に義理立てするつもりはない。
「殿、如何なされますか?」と重臣の平岡政頼が聞いてくる。
如何とはいつ下山して西軍を攻撃するかという問だろう。
「まあ待て。」
「殿、大久保猪之助殿が出馬されぬなら単独で下山し大谷隊に攻めかかると申しております。」
大久保猪之助は黒田から来た軍監だ。
裏切りの目付である。
(大久保を斬るか?しかし…。)
「もう少し待てと伝えよ。」と稲葉がいう。
その時耳をつんざくような轟音と共に大筒が撃ち込まれてきた。
「誰じゃ撃ってきたのは!」
「はっ、あの旗指物は内府殿の鉄砲頭布施源兵衛と思われます。
撃ち返しますか?」
「待て!」
内府が焦って督促してきたのか。
秀秋は極度に混乱した。
十中八九徳川方につくつもりでいたのだがもしここで西軍につけば立身出世が望める。
安全策を取ってみるより一か八かの賭けに出るほうが男として魅力的である。
それに東軍につくことを強く推したのは平岡、稲葉の二人の重臣である。このまま東軍が勝ってもこの二人が幅をきかせ秀秋はただの飾りとなるやもしれぬ。
いっそこの二人を斬るか?
「申し上げます。只今奥州より伊達政宗殿の使者が参られました。」
「なんとこの忙しい時に。捨てておけ。」
「いや、待て。」
奥州の伊達政宗とは大阪城で会ったことはあるが挨拶程度でろくに話たことはなかった。
何より遠すぎる。
今は会津で西軍についた上杉景勝と戦っているはずである。
(なぜ今頃伊達が使者を?)
秀秋はふと会ってみる気になった。
「許す。通してみよ。」
「はっ。」
陣幕を潜って現れたのはまだ年端もいかぬ美少年である。
美しい黒髪に漆のような瞳。白い肌に赤い唇が映えている。
今年十九になる秀秋とあまり変わらない齢と見える。
なぜか見覚えがあるような気がした。
「それがし伊達政宗が家臣片倉小十郎景綱が長子、片倉重長と申す者。主伊達政宗より金吾中納言秀秋様へ書状と言伝てを授かり遥々奥州より馳せ参じた次第で御座います。」
そういって平伏する。
「苦しゅうない。申し上げよ。」
「はっ。畏れながら言上つかまつります。」

【続く】








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