本物になりたい

「人でもモノでも、本物はもの欲しそうな顔をしていない」
私の大好きな白洲正子の言葉だ。
人様を本物かどうかなんて見極めるほどの審美眼を携えているわけではないが、嫌いなものははっきりしている、そんな厄介な人間が私だ。
祖母に「あんたは悪口は言うけどお世辞は言わないね。」と言われたことがある。真正面からのdisりともとれるが、私の性格をこれほど言い表した言葉はない。

「相手に自分の思惑が見破られるのが恥ずかしい」って感覚をもつのは果たして普通なのだろうか。私はずっとこの感覚と付き合ってきた。何かしら嬉しいことが私に起きてもそれをSNSに上げて「私がうらやましいでしょ?」ってみんなに思わせたい女だってみんなに思われるのが恥ずかしいから、SNSで何をすればいいのかわからなかった。でも周りを見渡すとみんな臆面もなく「彼氏」とか「スタバ」とか「ブランド品」とか載せて、「最高の私」を演出している。普段は褒められても過剰に謙遜するような人たちが、ネット上では「憧れられたい」って欲求を見せびらかしている。あれってめっちゃ恥ずかしいと私は思うんだけど、どう考えても私にしか当てはまらないよなこの感覚。私の美学とも思っていたこの感覚は単なる「ひねくれ」かもしれないし、友達のインスタを見て毎回勝手に羞恥心を感じているのも相当性格が悪いと思うし、そろそろ素直に生きるべきかと思い始めていた。しかしそんな時、白洲正子の言葉と出会った。私が何気なく感じていた「恥ずかしさ」を勝手にではあるが、白洲正子が言い当てたと感じた。白洲正子という審美眼の塊のような人が私と似たような感覚を持っていたかもしれない。これは、自分のひねくれ加減に辟易しながらも、自分は人とは違っていたいという中途半端な人間の虚栄心を十分に満たした。

自分の美学にしかと向き合ったとき、万物の好き嫌いの理由もそこに詰まっていることに気づいた。まず好きなものは、今でも人気の高いJR東海のあのCM。「雨は夜更け過ぎに~」からはじまるあのCMは、クリスマスに恋人と会うというカルチャーを生み出したと言われている。あのCMは「JR東海を使ってね!」という企業の思惑が一見見えてこない。日本経済に余裕があったからこそできる、贅沢な宣伝広告費の使い方だ。日本国民に「欲しがる顔」をみせることなく、カルチャーを生み出し、それが結果的には今でも人々に秀逸なCMとして記憶されている。まさに「本物」であると感じる。

次に嫌いなもの。例えば自分の歌のうまさを利用し、人を感動させたいと思いながら歌っている歌手。例をあげたらきりがないけれど、例えば外国人風の名前つけてハットかぶって歌ってる奴とかです。自分の歌で人が感動したり盛り上がったりという経験は承認欲求をびたびたに満たすだろう。だからどんどん新しい歌を作りたくなる気持ちはわかる。自分の歌唱力に自信もあるんだろうし。でも歌って毎回自分の骨肉を削り取って作り上げられるものだと思うので、人間ならば精神不安定になって当然だと思う。だから薬物に逃げたり、うつ病発症したりする歌手は信用できる。創作意欲の源泉が欲そのものではなく観客の涙になってる歌手は、嫌いです。

「欲しがる顔を見せる奴は本物じゃない」って言葉に痛く共感し、ゴタゴタ御託を並べてきた私ですが、そんな女もしっかりこの作品を創作対象に応募しちゃいます。恥ずかしいですが、私には、一生養ってくれるほどの実家の太さも白洲次郎のような権力者の夫もいません。自分のチャンスは自分でつかむ、そんなとき私の顔は物欲しく映るのでしょうか。本物じゃなくなるのでしょうか。深窓育ちのお方には意地汚いと思われるのかもしれませんが、競争社会に生まれた中途半端に自分の美学を持つ人間はその美学を保つために泥臭く生きなければなりません。

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