ピーター・ディキンスン全作レビュー(予定地)vol.1 ディキンスンとは誰か マイ・フェイバリット民族学ミステリ『ガラス箱の蟻』
ディキンスンとは誰か
ピーター・ディキンスンという作家がいます。アフリカのザンビアで生まれ、7歳までそこで過ごしました。奇抜な設定の本格ミステリを書くことで知られたイギリスの推理作家です。
私はこの作家のことが結構好きで、ミステリファンの集まりなどがあった時、自己紹介でたまにそう付け加えているのですが、恥ずかしながら邦訳すらすべて読んでいなかったりします。
そういうわけでここらで腰を据えてすべての作品を読んでおこう。ついでにレビューもしてしまおうという企画です。
さてディキンスンという作家がどういう作家なのか、最初にもう少し筆を費やしておきましょう。あるものの実態を説明する上で別のものに似ているよと言ってしまうのは、往々にして危険を伴いますが、言ってしまいましょう。日本で言えば麻耶雄嵩に似ています。麻耶さん自身もディキンスンの愛読者であることが知られています。
評論家の福井健太さんは2人の作家に閉じた世界のミステリを書くことを得意としているという共通点があると指摘しました。
ディキンスンで言えば、それは19世紀を再現したテーマパークであり、キャシプニーという眠り続ける病の治療施設であったり、教団であったり、英国王室であったりします。
麻耶雄嵩で言えば『木製の王子』等に登場する奇妙な家、一族であり、和音島の人々が典型例でしょう。『神様ゲーム』の小学校における友達グループなどにもそうした要素があるかもしれません。
これらの集団はしばしば外部と精神的・物理的に隔絶されており、独自の価値観を有していたりします。
『ガラス箱の蟻』あらすじ
デビュー作であり、ピプル警視シリーズの1作目でもある『ガラス箱の蟻』もそうした作風の典型例と言っていいでしょう。ちなみに私はこの本が海外ミステリのオールタイムベストテンに挙げるぐらい好きです。
クー族はかつてニューギニアに住んでいたが太平洋戦争の時、彼らの集落にイギリス人飛行士が逃げ込んできたために日本軍の侵攻を受けます。
生き残ったクー族はその後ロンドンに移り住み、テレビを観たりして日々を過ごしています。クー族たちのロンドンでの住処を提供するのは日本軍による虐殺当時クー族の村に滞在していた宣教師マッケンジーの娘のイヴであり、彼女はクー族の一員であるとともに、博士号を持つ人類学の研究者でもあります。クー族たちの住む住居の隣には虐殺のきっかけとなった元飛行士ボブ・ケインが住んでいるというのも不穏なところです。物語開始時点でクー族たちはロンドンで20年以上の歳月を過ごしているのですが、突如酋長が何者かに襲われ命を落とすところから物語は始まります。
ポーランドの著名な人類学者マリノフスキーの名前が登場するなど、ディキンスンが人類学の成果についてある程度意識した上で本書を書いたことが伺えます。
「民族学」ミステリとして
クー族のような未開(こうした文化が単系に進化していくという前提を元にした概念はかなり以前から人類学では眉に唾を付けられているのだという)の人々が本格ミステリの世界に登場する時、読者や作者が所属する社会とは違う価値観を持ち込むことが期待されているように思います。
しかしそうした作品では彼らをいわゆる文明社会の時間の流れとは切り離された集団として書いたり、十把一絡げに同じ刺激の前に同じ反応を返すかのように描かれることが少なくありません。
一方で本書のクー族たちはニューギニアではマッケンジー牧師のキリスト教化を受け、ロンドンではニューギニアでは見ていなかったテレビを見たり、学齢期の子供は学校に行き、一部の若者は郵便局(だったと思う)に働きに行くなど部分的にイギリス化しています。ほかの文化と混淆しているのです。ちなみにこういう風に民族を描写するのはディキンスンが植民地育ちであることと無関係ではないかもしれません。
自分たちの変化についても、好ましく思っている人間もいれば、そう思っていない人間もおり、そこに火種があります。ここで麻耶によるディキンスン評を紹介しましょう。
私は本書を読んだ時、あくまで個であること、民族という集団が一枚岩ではないことが強調されているように思いますが、一方でこのディキンスン評はこの作品にも当てはまるように思います。作品の中で個を発揮しているクー族たちは皆、集団がどうあるべきかという意見を持っているようだったからです。対立しているように見えても、それはあくまで一つの身体の右手と左手が喧嘩しているということなのかもしれません。
麻耶雄嵩はディキンスンのテーマについて「共栄の幻想」とも指摘しており、集団の不安定さのようなものも念頭に評していることが伺えます。
こうしたクー族の描写が民俗(族)学ミステリとして『ガラス箱の蟻』を非凡なものにしているように思います。最早民族誌的ミステリと言ってもいいかもしれません。
主人公であるジェイムズ・ピプル警視も物語開始早々にこうした民族の事情に分け入ることが解決への近道であることを悟ります。
最後に
ちょっと出所不明なので本当にそんなものがあるのかという点については各々で確認してほしいのですが、昔、文化人類学の何かの本で実験的な民族誌(エスノグラフィー)のジャンルとして殺人の民族誌というものがあると書かれていたような気がします。
殺人が起こると被害者はどのように扱われるのか、犯人をどうやって特定するのか、動機は何か、罰はどのように科されるのかなどその社会の法や価値観などがよく理解できるという話です。
まあジャンルというよりは殺人という緊急事態も文化人類学の立派な研究対象だよという話でしょうか。
私は麻耶の『夏と冬の奏鳴曲』やディキンスンにはこれと似たものを感じます。殺人を通して社会を描くというか、静かな箱庭の中にあえて火種を投げ入れて慌てふためく様からその本質を探るというか。この小説を民族誌的と言ってみたのはこういったことも念頭にあったりします。
参考文献
福井健太「『木製の王子』解説」(麻耶雄高『木製の王子』講談社文庫収録)
麻耶雄嵩「『毒の神託』解説」(ピーター・ディキンスン『毒の神託』収録)
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