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041.忽然と知る円数の妙

野沢定長が、円周率の値πとして数学的に正しい3.14を取らず、あえて3.162を選択したのは、なぜでしょうか。
円周率の計算に明け暮れるある日、彼はあることを発見して、「忽然と円数の妙を知った」
と紹介されています。その「妙」とは、
 
「円周率の値は<形=経験>によってこれを求めれば3.14だが、<理=思弁>によってこれを求めれば3.162である」(⑬「日本史再発見」板倉聖宣、朝日新書)。
 
というのです。
実際の形からくる値を「形で求める」といい、理屈に沿った値を「理で求める」として、野沢定長は、形よりも、「理=思弁」を取りたい、というのです。思弁とは頭の中で考えた理屈ということで、そうすれば、3.162になるというわけです。何やら狐につままれたような話ですが、分かりやすく言えばこういうことです。
数学というと、どちらかと言えば計算がすべてで、感情や思いなど入り込む余地がない無機的な世界と思いがちですが、野沢定長は、「円は美しい形をしている。ならばその値も美しくなければならない」という思いに行きついたそうです。というよりも、そうあってほしいという願望の表れかもしれません。
そんな野沢定長が「忽然と円数の妙を知った」のは、10の平方根(面積が10になる正方形の一辺の長さ)が3.16であることを知ったことがきっかけだと、板倉は説明しています。
外接する正多角形と内接する正多角形の間に円周率の真理があると追求してきた野沢定長が、面積が10の正方形の一辺の長さ=平方根を美しいと感じるのは、数学者特有の感性かもしれません。
数字が、人間の感情など入り込む余地がないほど絶対的な真理として、合理のみで進められていくのとはまったく逆に見えますが、当時の数学者の感性からいえば、意志や思いを込めて「理で求める」算法の方が、むしろ自然ということかもしれません。
日本の現場では改善に際して、普通では考えられないような工夫が成功したりします。そんなとき、この、野沢定長の3.14よりも3.162を支持したい、という感覚が、論理だけでは気が付かない苦し紛れの改善のアイデアを生みだすヒントになっていることがあるような気がします。
直感でムリと思われるようなアイデアでも、さらに追求してみると、意外と方法が見つかったり、アイデアが生まれたりします。
この話しは、正しい/正しくない、あるいは、事実は何か、と議論をしているときに、いきなり、「それはそうかもしれないけど、アタシそれ好きじゃない」とか、「でも、それでいいの?」と、突然、別の論理基準を持ち出して相手をケムにまくやりかたに近いかもしれません。
論理で固まりがちな数学の世界で、自らの感覚や思いを信じて、あえて論理を外れてみることで見えてくるものがある、そんな感覚は、日本人には理解できそうですが、西洋的な合理性からいえば「クレイジー、わけが分からない」ということになりそうです。

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