見出し画像

【知られざるアーティストの記憶】第21話 まさしくアーティストの風貌の彼は、こなれた態度がかっこよかった

→全編収録マガジン
→前回

第4章 入院3クール目と4クール目の間
 第21話 まさしくアーティストの風貌の彼は、こなれた態度がかっこよかった

翌2021年7月8日、マリは彼に連れられて、白い画廊のNさんを訪ねた。Nさんの画廊は彼の家からなだらかな坂を数十メートル登ったところにあった。彼はいつも創作の途中に思索を練りながら、家の前の道を左右に約20メートルずつくらいゆっくり歩くのだが、Nさんの画廊はその右側コースの終点だった。

「息子はただのアニメオタクで、好きなキャラクターの絵を描きたいだけですから。特に自分の中に表現したい何かがあるわけではないんです。」
Nさんにわざわざ会いに行くまででもないと気後れしていたマリは、彼に一応そう伝えたが、それでも行ってみようという彼について行ってみることにした。突然訪ねるのに、手土産もなくていいのかと気になりながら、彼にすべて任せるしかなかった。

彼は呼び鈴を押すと、インターフォンに向かって
「下のワダですけど。」
と言った。しばらくして、玄関に現れた高齢のNさんは、驚いたような戸惑ったような表情を浮かべていたが、
「どうぞ。」
と、閉館中のがらんとした画廊の中に2人を招き入れた。

「最近はどうですか?描いてるの?」
彼はまるで絵描き仲間同士のような口ぶりでNさんに問いかけた。彼はNさんの描く絵について、
「彼女はメルヘンチックな絵を描くよ。私とは考えてることが違う。」
と事前にマリに話していた。その時点で彼の絵をまだ見たことがなかったマリは、彼の画風と彼の「考えてること」に思いを馳せた。

「最近はちっとも描いてないのよ。もう描く気力がなくなっちゃった。」
とNさんは答えた。
「描かなくっちゃ。」
彼はイタズラっぽい笑みを向けながら年上のNさんを励ました。
「この人は、Aさんの借家に住んでいるスナガさん。彼女の息子がアニメオタクでね……。」
そこまで言うと彼は
「自分で説明して。」
とマリに急に話を振った。マリは元中学の美術教師であるNさんを前に、可能な限り優等生な説明を並べた。彼は頭の後ろで腕を組んで二人の会話を見物していた。

「それなら、在籍している高校の美術の先生にご相談なさるのが一番いいんじゃないですか?」
Nさんとの問答は、マリが思っていた通りに不毛であった。その後しばらく、彼とNさんが美術の教育論や芸術論を論じ合うのを、マリは興味深く聴いていた。マリは彼の姿を時々視界に入れながら、彼ってまさしくアーティストの風貌だな、無駄がなく的確で、態度がこなれていてかっこいいな、と気を散らしていた。

「最近はね、近所のコーラスに通うのが楽しみなの。」
というNさんの話を、若い頃に合唱をしていたことがあるマリが
「それはどこでやっているんですか?」
という質問で膨らませてしまうと、彼はあからさまに嫌そうな顔をした。この人は、自分に興味のない、関係のない話に時間を取られることをものすごく嫌うのだな、とマリは理解した。

落としどころのない思いを抱えながら、二人はNさんの画廊を後にした。「描く気力がなくなった」というNさんの言葉は、歳を取ることに伴う現実として、彼には思いのほか重く響いたようだった。

マリの長男の現在の趣味に関して彼は、自分と同じ表現の道を志してほしいという期待と、もし志すのであれば最大限応援し、力になりたいという思いに基づいて彼なりに思案を巡らせてくれた。もしかすると彼は、マリの長男に何かを伝え遺すことに、マリとの出会いの必然性と帰結を見出したのだろうか。今回Nさんにマリを繋いだことで、自分にできることは果たしたという安堵感と、あとは本人に任せればいいという彼なりの引き際のようなものが見て取れた。

画廊からの帰り道、二人並んでケヤキ並木をゆっくりと歩きながら、そういえば初めて彼とのデートが叶っているような、ふわふわとしたこそばゆさをマリは感じた。家のすぐ近くを二人で歩いているというのに、マリには彼のことしか見えていなかった。彼もまた、人目を気にしている様子はなかった。

話の流れで、マリは今の借家にはあと1年半しか住まない予定だと彼に伝えた。
「それは考えた。」
と彼は顔を曇らせながら即答した。マリには自分が引っ越した後にも、彼との関係や彼への思いがちっとも変わらないというイメージと自信がなぜかあった。しかし、マリが引っ越すより先に彼のほうが居なくなってしまうことなどは、この時にはつゆほども想像していなかった。

つづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?