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【知られざるアーティストの記憶】第19話 相手の墨汁に染まるのではなく、清く澄んだ水で洗い流せ

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第4章 入院3クール目と4クール目の間
 第19話 相手の墨汁に染まるのではなく、清く澄んだ水で洗い流せ

2021年7月5日に彼は退院してきた。翌日の夕方、マリが公園で気功を始めようとしたときに、自転車のカゴに米を乗せて買い物から帰ってきた彼と遭遇した。

マリは彼の入院中に新調した鮮やかな水色のアラジンパンツを履いて、準備運動を始めたところだった。彼のほうが先に気がついて自転車を止めた。公園の入り口で、彼は何か小難しい話をした。話の流れでマリは、初めて長男のことを話題にした。当時高校2年生だった長男が、高校のゼミ授業で「アニメ・イラストゼミ」を取っていること、趣味で時々、好きな漫画のキャラクターの絵をスケッチブックに描いたりすることを伝えると、彼は思いのほか驚いたような顔をして、
「えっ?どのくらいのレベルなの?」
と目をむいて訊いた。
「レベルなんてもんじゃないですよ。まだへたくそですよ。」

マリの返答を聞いているのかいないのか、彼は10代後半という時期が、技術や人格を身に付けるのにどれだけ大切な時期であるかということを説いた。
「体がやっとできあがってくるこの時期に、操作性を身に付けなければならない。それとともに何よりも重要なのは思想を身に付けることだよ。私は17歳のときに、7分で似顔絵が描けるようになったから。」

彼の話したことのほとんどは、以前に彼の玄関でも話してくれた内容だったが、マリの長男が17歳で、趣味で絵を描いているということを知って、彼の目の色が変わった。同じ内容を今度は、マリの長男に焦点を当てて熱心に語るのだった。マリの長男は絵描きの道を志望していたわけでは全くなかったので、彼の熱量にマリは少し戸惑った。

「長男に今度、線の引きかたでも教えてあげてくださいよ。」
なんて軽い気持ちで言ったのがいけなかった。
「私は教えることなんてできないよ。それなら、すぐそこの坂を登ったところに画廊があるだろ?あそこのNさんは昔、中学校の美術の先生をしていて、自宅でも子どもに絵を教えていたから、相談しに行くかい?」
と言い出した。
「いやあ、でも長男がそれを望んでるかわからないので……。」
とマリは口ごもった。彼はまるで、まだ会ったこともないマリの長男の将来に対して責任でも感じているかのようだった。

「それにしても、なんでそこまでうちの息子の将来を気にかけてくれるんですか?」
とマリは思わず訊いた。
「そりゃあ、あなたと関係を持ったからだよ。」
と彼はややバツが悪そうに即答した。

この時も、話している途中から酷い頭痛と肩こりに見舞われ、首の付け根を揉みながら話しているマリに、彼は
「蚊に刺されたの?」
と訊いた。マリは黙って微笑みながら首を横に振った。

マリは彼の自転車から10キロの米を降ろすのを手伝おうと、気功を取りやめて彼の家について行ったが、彼はさっさと自分で米を降ろし、マリに向かって
「また話しましょう。」
と言った。マリは、彼がマリと話すことを必要としてくれているのを感じた。マリはもう、ノートをあまり必要としなくなった。平熱で彼と会えるようになっていた。

自分が恋心を自覚している相手から、受けているような気がする身体症状について、マリは友人に話してみた。その友人は、ヒーリングやセッションを仕事とする人だった。彼女からのアドバイスは、とにかく自分に集中しろ、ということだった。
「自分の中を流れる清く澄んだ水を、清く澄んだままに保つことに集中したほうがいい。相手の黒い墨汁に染まるのではなく、自分の清く澄んだ水を溢れさせて、相手の心の中を洗い流すようであればいい。」
と彼女は言った。

相手の黒い墨汁。彼が墨汁を抱え込んでいるとするなら、それは一体何なのだろう。


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