見出し画像

【知られざるアーティストの記憶】第17話 夏に黄葉した桜の一枝と、弟のマサちゃんとの交流

▽全編収録マガジン

▽前回

第3章 彼を待つ時間:入院3クール目

 第17話 夏に黄葉した桜の一枝と、弟のマサちゃんとの交流

2021年6月9日から7月5日までに及んだ彼の3クール目の入院中にもう一つ、約1年後の彼の旅立ちを知らせていたのかと今となっては思えるような、とても小さな出来事があった。その知らせをマリに届けたのは、彼の家の前の小さな桜の街路樹であった。その木は、彼の家の槐の木から、小さな歩道を隔てた斜向かいに立っていた。

ある日の夕方、マリはふと、その桜の木の枝がなぜか1本だけ黄葉して舞い散っていることに気がついた。はて、桜の木って、夏に一枝だけ黄葉するなんてことがあったかしら。これはよくあることなのか、その時のマリにはわからなかったが、とにかくその現象はマリに何とも言えない「嫌な予感」を与えた。
(入院中の彼の容態が思わしくないのではないだろうか。)
とマリは思った。全く連絡を取ることができないという状況下では、悪いほうへの心配ばかりが先行するものかもしれない。

マリは彼の弟のマサちゃんを見かけると、
「あのう、お兄さんの体調について病院から何か連絡はなかったですか?」
と訊いた。
「いやあ、特に連絡はないよ。病院からの連絡は全部親戚のほうに行くようになっているから。」
とマサちゃんは答えた。

なんだ、ただの思い過ごしか、とマリはほっとした。しかし、思わずスマホでその枝を撮影した日時をのちに確認すると、なんとそれは2021年7月2日、彼が旅立つちょうど1年前だった。

2021年7月2日。一枝だけ黄葉した桜の一枝(夏には紅葉はしないみたい。)


彼の入院に関する一切は、彼の家から車で約40分離れたF町に住む従兄が責任者となっていた。この時点でマリは、そのような状況の詳細について彼から説明を受けていなかった。入院の保証人や連絡先などには弟がなればいいのに、離れて暮らす従兄がなっているということは、マサちゃんにはなれない理由があるということだ。マサちゃんは、社会人としての責任能力を満たさないとみなされているのだろうか。

とにかく、マサちゃんは自分で病院に連絡を取ることもできず、兄がいつ帰ってくるのかもはっきりとは知らない状態で、ただひたすらに兄の帰りを待っているようだった。もちろん、567体制で面会は全面禁止だが、彼の洗濯物を病院に届けるということもマサちゃんはしていなかった。ただあてもなく待つというのは、どんなにか心細く寂しいのではないかと、マリはマサちゃんに同情し、彼の帰りを待つ同志のような思いを抱いた。

マリは彼がいない間、おせっかい心をマサちゃんにも発動し、見かけるとなるべく挨拶だけでなく会話をするようにしたり、たまに食べ物の差し入れをしたりした。ワダさんも背の低い人だが、マサちゃんはそれよりもさらに小さく、下手をすると150センチであるマリの身長よりも小さいくらいに見えた。背中が曲がり、小太りで、眼鏡をかけているマサちゃんは、くりっとした愛くるしい目をしていた。痩せていて切れ長の鋭い目を持つワダさんとは、どこも似ているところが見当たらず、むしろ正反対の二人であった。

あるときは庭の山椒の実を、使わないから好きなだけ採っていいとマサちゃんが言うので、お返しにパン屋の友人が送ってくれた菓子パンをおすそ分けすると、F町の従兄が作ったというずっしりと重たいキャベツをくれた。彼らの庭に従兄が植えたミニトマトがたわわに実っているのも、赤くなったらぜひ採っていってくれとマサちゃんは言った。マサちゃんを元気づけようとしたマリは、かえってマサちゃんから元気の元となりそうな採りたて野菜をもらってしまうことを申し訳なく思った。

マサちゃんはやさしく、いつも律義にお返しをくれた。メロンをカットしておすそ分けしたときは、
「こんな高級なものを申し訳ない。」
と言って、マリの息子たちにお菓子を買ってきてくれた。
「お返しなんかできないよ?」
と言ってマリからの差し入れをただ受け取る一方のワダさんとは、そんなところも正反対だった。

彼らの家のシンボルのような大木が、「槐(さいかち)」という名前で、樹齢400年ほど経っていること、これは昔、お城の殿様が植えたものらしく、これだけの大木になっているものは市内にたったの2本しかないということを最初にマリに教えたのはマサちゃんだった。そして、彼が痩せているのはお母さん似で、マサちゃんはお父さん似の体型であること、退院後の彼は麺類などの炭水化物をたくさん食べたお陰で体重が2キロ戻ったこと、彼はアイスクリームが大好きことなども、マサちゃんとの立ち話の収穫であった。

マリと話すときの彼は芸術や哲学の話をすることが多く、意外と知らなかった生活面での彼の素顔を覗き見られるという幸運が、マリの寂しさを紛らわせていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?