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草加の窓際-意図せざる場所と意図する場所の同居 <その1>

草加の窓際は埼玉県の草加市にある1987年竣工のマンション一室改修のプロジェクトである。そこでの思考の記録をしようと思う。

施主であるF氏は両親と住むために2013年にこのマンション一室を購入した。場所は東武スカイツリーライン獨協大学前。かつて東洋一のマンモス団地と謳われた松原団地の建て替えに伴う分譲住宅再開発が著しい街ではまさに微視的な地殻変動がおこっていると言える。

「マンションを購入し暮らすこと」が<普通>になっているそんな場所である。

<変わらない景色>
敷地が与えられたと同時に1Kあるいは1LDKもしくは2DK...etcなどの部屋の単位-水周り+居室をパズルのようにはめていく、そうしてうまく収まった単位空間を、投資効率の良いスキームのもとマーケットニーズに外れないよう反復していく。そうした一種のアルゴリズムの元、生成されていくマンションの計画。このような市場の原理によって立ち上がった部分の集合はいうまでもなく、ひとつのまとまったボリュームとして都市の文脈とは無関係に立ち上がる。立ち上がったマンションの内外を調停するのは部屋の一部として反復された採光や通風のための機能的な窓である。しかし、それらの窓は住人が手を加えること自体がマンションの管理規約上、不可能な場合がほとんどである。つまり住人たちと都市の距離は窓自体により固定化されるのだ。
マンション内部からの景色も、マンション自身の外観も窓自身の固定化に大きく依存するのである。


<合理的なプラン?>
80年代後期の郊外ファミリーマンションはバブルによる投機から、まさに空間合理性を追求したプランのマンションが多く存在する。「寝」と「食」を明確に分離して食の空間であるリビングダイニングを最小化することによって得られた「寝」の空間を確保するプランは定量的不動産情報として競争力を持つものである。
そうしたプランは日中は都心に通勤し、帰宅後は簡易な食事でことを済ますようなライフスタイルの鋳型にもなれるようなベッドタウン機能の一翼を担うことになる。草加のマンションもその例にもれず、3DKのプランは必要最低限の居間にそれぞれの住人がベランダにアプローチすることが可能な窓を持つ2つの居室が連続しているプランであった。その二つの居室は間仕切り壁によって仕切られた空間で、住人はそれぞれ別の窓から都市を見る格好になる。
施主であるF氏は両親と住むために2013年にこのマンション一室を購入したが、両親が相次いで亡くなったため、一人でこの3DKを住みこなすこととなった。各居室プライバシーを担保するための間仕切り壁は生活の導線上の障壁になってしまった。

<窓際へ>
初めてこの部屋を訪れた時、Fさんは、嬉しそうにベランダから見える桜並木や、松並木、その脇を流れる逢瀬川の景色について話してくれた。
「春になると、色んな人が桜を見に来るんだよね」
この言葉を聞いた時、改めて目前に広がる環境が反復された二つの窓と主室を隔てる間仕切り壁によって矮小化されてしまっていることが残念に感じた。

購入当時のマンションのプランはいつしか、合理性を失っていた。

そうしたことから
・生活の重心をかつてのDKより窓際に移せないか
・窓から見える風景をより広がりを持った風景にできないか
と考えるようになった。

ただ、前述の通り間仕切り壁が部屋を仕切ってること、窓自体にデザインすることができない問題の中

○間仕切りを壊し一室の大きなLDKにして、外との繋がりを感じられるプランに
○新しい窓枠を既存の窓枠にオーバーレイすることで、新しい風景を感じられるように
以上の二つのことが設計における大きなテーマになった。

生活の重心を窓際に写し、新しい風景を感じてもらえるようなプランにしたいと考えた。

そして解体、設計、施工これらはなるべく自分たちで行うことにした。

〈冗長な状態のままにする〉

まずは生活の重心を写すために間仕切り壁の解体並びに既存収納の解体を行い、大きめのワンルームを作った。
そこには寝室も兼ねるということであったので、緩やかに分節するためレベルの異なる小上がりを設けることになった。
そこに付属する収納は服のための居場所として服のスケールにならい奥行き700のショーケースを合板により作製した。偶然ではあるが、プランニングの際、元々の押入の位置に服の収納を納めることにした。なるほど木の造作工事は既存の木下地を頼りに納めるすることが可能である。しかし、ここでは既存の押入れの木下地の奥行きとは異なる寸法をもつ箱を挿入することになり、かつて押入れの機能を担保させるためだけの木下地自体が冗長な寸法を持ちながら露出することになる。
それは設計者の意図とは別個に生み出された副産物である。つまりデザインされていない状態のものが突如空間に現出する。デザインはある種使い方のガイドを強くユーザーに与えることでデザイナーのこうして使って欲しいという欲求自体が具現化されたものとしても読めるだろう。

しかし、こうしてできる意図の介入しないモノは改めてわれわれに創造的な問いを投げかける。どうやって使おうという思考である。



考えてみれば私達が暮らしている都市もこうした副産物だらけだ、例えば都心部における戸建住宅は民法上、隣地から50cmセットバックして建築をしなくてはならない。そうしたことにより住宅と住宅のあいだにはわれわれの意図とは関係なしにスキマが生まれる。そのスキマこそが、まさにその意図が介在されない空間だと言えよう。デザインされた場所とデザインされてない場所の両立した状態が都市において当初の想像を超えたところにある創造が生まれる場所になりえないだろうか。

もちろん、デザイナーとして全てをデザインしきるというのは必要である。ただ、意図しない部分を意図的にどうつくるか。それは場所に対しての創造力をいかに、つくっていくかに置き換えることができると思う。

そうしたことを草加の窓際で考えて作ろうと思っている。


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