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安部礼司、七尾藍佳さん、大学1年目の東京寮生活

大学1年目は、永福町の寮に住みながら、”留学する人のための学校”に通っていた。


“安部礼司”がきっかけで、永福町に住むことに

以前東京に住んではいたものの、上京して大学生になった私は、普通の部屋よりも寮に住みたいと思っていた。生活が心配だったし、食事もついているのがいい。学校には専門の買い上げのマンションはあったものの、アクセスはいまいちだったし(専門の住居って基本的にそうだよね)、家では学校の生活から離れたい気持ちがあったので、ここはやめた。家賃も安くなかった。それで寮を探すことにしたのだが、学校は新宿なので、かなりどこからでもアクセスがいい。つまりどこに住んでもいいわけで、1本で行ける、1回乗り換えれば行ける、といったところで住む場所なんて全然絞れない。

うちはラジオを聞く家で、母が週末は聞きながら家事をしていたので、私も弟も聞くようになった。当時聞いていた番組のひとつで、どうやら今も続いているらしい(すごいなあ)日曜夕方のラジオドラマ「Nissan あ、安部礼司」があった。日産がスポンサーで、”平均的なサラリーマンあべれいじ(average)”が、仕事して、恋愛して、懐メロを聞く、という話だった。月曜日を前にして、憂鬱になりがちな日曜日の黄昏時に送る話。この安部礼司が30代で、マリオネット(曲)なんかがかかるので、聞いているということ自体が友達には通じなかったし、唯一通じた学校のスタッフには、「一体いくつなの!?」と言われた。なんたって10代だったし、親も世代は外れていたはずだけど、このときラジオドラマ自体があまりなかったし、おもしろかったし、時間帯もよかったので、うちではみんなで聞いていた。

このラジオドラマで、安部礼司が結婚して、永福町の家に引っ越す。Forever happy townこと、永福町。安部礼司は神保町で働いている設定だったから、乗り換え2回のはずなんだけど、新宿は1回で、とても近かった。そういうわけで永福町に寮がないか探してみたところ1件あり、その系列だか周辺だかで何件か見つけて、母と一緒に見学に行った。その中でも永福町の寮が、一番値段的にも街の雰囲気的にもよかったし、人気で埋まりそうだったので(まだ12月だったような)、早速申し込んで入ることになった。

快適な寮生活

寮は女性限定で、寮母父さんが住み込んでいた。本人もよく言われると言っていたけれど、寮母さんはドラえもんのようなしゃべり方をしていた。笑
部屋は数人を除き、基本的に個室だった。電気代は毎月それぞれが払っていたし、ネットもそれぞれで契約していた。朝夕はついていて、食堂で出してくれた。ピアノもあったのだが、恥ずかしいので誰もいない時間帯に時々弾いていた。

立地上、一番多いのは明大生で(明大前駅はとなりだし、歩いて行けた)、その他美容・アート系の専門学校生や、駒場の東大生なんかが住んでいた。門限があり、外泊も前もって申請しないとできず、父親ですら中には入れなかった。夜遅くまでバイトができないという点では不便だったのかもしれないが、私は特に不自由はなかった。1度、父親とその知り合いと食事に行って、門限ぎりぎりまで言い出せず、タクシーで送り届けてもらったことがあった。当時、私はこういうことを父親にすら言い出せない子供だった。

寮に馴染めるか、いじめられたりさみしかったりしないかがとても不安だったのだが、40人くらいの寮生みんなに話しかけたり挨拶をしたりする必要はなく、なんとなくグループがあるけれど、基本的に顔を合わせるのは食事のときのみで、それぞれ生活していた。時間がずれたり、予定もそれぞれあるので、仲のいい人がいれば一緒に食べるし、そうじゃなければテレビを見ながらごはんを食べて、部屋に戻っていく、そんな空間だった。美容系の人々がヘアメイクの宿題の話をしていたり、マネージャー志望の子が芸能人の話をしているのを聞きながらごはんを食べていて、私には居心地がよかった。気張らなくてよかったし、特に派手で怖い人もいなかった。彼氏がいる子もあまりいなかったと思う。余談だが、隣の部屋にはBLマンガ家志望の人が住んでいた。笑

朝はぎりぎりに起きるので食べないことが多かったけれど、夕飯は基本的に食べていた。声優志望の子や(今は声優になっている!すごい!)、裏方志望の子、音大の子たちとつるんで、下北沢に夜遊びに行って、ゲームセンターに行ったり、タピオカを飲んだりもしていた。もちろん門限の前にはみんなで帰った。健全だった。笑

ひとりで何をしていたか

学校の話は、今のところ詳しく書くほどの内容はないと思っているのだけれど(留学志望の人には参考になるかな)、私はこの時期それほど勉強はしていなかった。新宿でよりみち&ウインドウショッピングをして帰ったあとは、勉強もしなきゃいけないんだけれど主に好きな本を借りて読みに行く目的で、学校のではなく近くの図書館によく行っていた。この、「私はみんなと違うの!学校の集中できない図書館じゃなくて、ローカルな図書館を楽しむの!」というのが、悦だった。井の頭線はそれほど混まなかったし(押し込む駅スタッフはいなかったと思う)、京王線でも一駅だったけれど、”普通なら憂鬱な時間でしかないはずの通勤時間を、私は本を読んで楽しい時間に変えている!”という感覚が、これまた悦だった。永福町の駅前はレストランやドラッグストアやスーパーはあれど、それほどおもしろいところではなかった(今は踏切がなくなって駅にお店も入ったようだけれど、当時はなかった)。近くにどこまでも続いている商店街があって、ある程度のところまで行っては引き返したりした。ファミマでスイーツを買って帰ったり、雑誌を立ち読みしたり、いわゆる普通の大学生がするような?生活をしていた。

この時期は夜の散歩が好きで、永福町ではなく下高井戸に行くことが多かった。道すがらは人通りが少なく(危ないという意味ではなく、静かだった)、ひとりで夜歩きを楽しむには最高だった。ちょうど、綾香と水嶋ヒロが結婚した頃でもあり、綾香の曲を歌いながら歩いたりしていた。笑

下高井戸に着くとにぎやかな商店街があり、園芸屋・スーパー・駅の中の本屋・蔦屋・Right-onなんかがあった。高いものを買うお金はなかったけれど、ここを歩いているだけで楽しかった。時々ドトールでお茶をした。今でも頭をすっきりさせて、リセットするために散歩に行くけれど、当時も私はひとりで部屋で退屈する気持ちを持て余し、本当はやらなきゃいけない勉強のことや、芸能人が住んでいて、おしゃれな服が買えたりする東京に住んでいる喜びなんかを整理していたのだと思う。

東京の大学生の週末

「週末は東京でいろんなところに出かけて楽しむように。1年で週末は52回しかないし、そのうちの何回かはほかの用事や勉強で潰れると思えば、行きたいところには行くしかないよ」

と、親には言われていた。なんとも理解のある親である!そのために少しのお金なら出すよとも言ってくれた。だから、特に印象的なことはあまり思い出せないのだけれど笑、週末は出かけていたのだと思う。

・六本木ヒルズのスタバで、英語ではない何かで話しているビジネスマンを見かけ、電話に出たとたんに”日本語で大丈夫ですよ”と言っていて驚いた。留学前だったので、こんな場所(六本木ヒルズに入っているような外資系)でいずれ私も働くのかなと思った。

・誕生日には東京タワーに行った。もちろん、ひとりで。当時、誕生日ならその人は無料でタワーにのぼれて、カフェでケーキももらえるサービスがあった。ちなみにその後、1人分の料金でペアで入れるチケットに変わった。実際、私の後ろにいたカップルが、なんでそういうシステムにしないのか、と言っていたのが聞こえた。誕生日はひとりで過ごす、がモットーの私は、なんとも思わなかった。笑
なんでひとりで過ごすようになったのか、たくさん反響を頂いていて嬉しい限りの記事は以下にて。

・当時ブログで有名人が着ていた服を買って着てみたり、たまたま帰りに寄ったお店でモデルがイベントをやっていて、遠くからのぞいてみたりした。原宿に雑誌で見たサンダルを買いに行って、すごいヒールなのだけれど履いて図書館に行ってみた(KuTooだった)。Forever 21のスカートを買ったり、Zaraのワンピースを着たりもした。地方の人にはわかってもらえると思うけど、雑誌に載っているお店って基本的に東京にしかなかったので、これも楽しかった。

・夏は高井戸のプールに通い、スーパーを見たりして、何駅か歩いて帰ったりしていたことだ。親がスーパーで働いていたので(レジのパートではなく、ちゃんと)、いろいろなスーパーに行くことはおもしろかった。今でもお店を見るのは楽しい。(私は泳げるけれど、それほど長く速く楽には泳げないので、当時どうだったのか思い出せない…水泳を習ってみたこともあるのだけれど、半年通ったもののあまり上達せずに終わった。)

・少し遠かったし、気も進まなかったのは亀有の両さん像を見に行くことで、これは帰国後に達成した。

恋も長いことしなかったし(ほんとに後半に、ちょっとだけあった)、この時期は特に悩みもなく、私なりに自由を謳歌していた。何もなかったけれど、自由だけはあった。幸せだった。

ラジオパーソナリティになりたい

ラジオに話を戻そう。私はこの頃ラジオパーソナリティになりたいと思っていた(留学するならMBAを取ってこいと言った親の友達には、その夢どうなんだと言われたけれど、何とも思わなかった。これについては、大学院への所以を参照)。

中学のときからラジオをずっと聞いていたからだと思う。特に好きだったのは、高校受験期に朝の番組を聞いていて、のちにNews Zeroに移る七尾藍佳さんで、七尾さんのエッセイ本「ホメコトバ」は、本の虫だけれど本をまったく所有していない私が持っている数少ない本の1冊だ。帰国子女で、多言語ができて、素直で素敵な感性を持っていて、エッセイが書けてラジオ番組をやっている。Role modelって言われると難しいけど、1人挙げるとすれば七尾さんだと思う。

ラジオパーソナリティというのは、こうすればなれる、という道がない仕事だそう。ラジオのイベントに行って、”ラジオ局に就職するのが近道です”と言われたこともあったけれど、私はラジオ番組自体を持つというよりは、ラジオや本の話が来るような何か有名な人になりたい、というのが夢だった。いずれは地元に戻って、友達が聞く番組を、と思っていたこともあった。今は誰でもPodcastができて、どこでも聞けるようになってしまったので、気が向いたらいつでもできる。だけど、カフェや車の中でラジオを聞くと、やっぱり楽しい気分になる。

留学中は、今みたいになんでも見れたり聞けたりする環境ではなかったので、安部礼司を聞くことはできなかった。その後何度か聞いてみたこともあるけれど、なんだか古くなってしまったというか、そぐわなくなってしまった。日本のコメディ、つまらん、と思った。

アメリカでもラジオは聞いてみた。日本とは違い、おたよりのコーナーもなかったし、特にはまらなかった。なんと大学のProf.が元DJだったのだけれど、playlistがそもそもあるので、リクエストをかけることもなかったと言っていた。その後、Podcastが主流になり、すごい数を今でも聞いている。Podcastはおすすめがいくつかあるので、それについてはまた書こうと思う。

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