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努力を楽しいと思うこと『日記:2024.4.14』

全国民が頑張って勉強していたり働いていたりするのに、仕事をしていない私が頑張っていないのは意味が分からないという不快な気持ちと、申し訳ないという謝罪の気持ちを込めて日記の投稿を始めた。

三日坊主の私が日記を始めたのは、長文をすらすらと書けるようになるための練習と、絶対に物書きになってやるからなという強い意志が理由になっている。

おかげで私が書く日記の分量、おおよそ1000字の文章は軽々書けるようになったし、毎日目標を設定して毎日見直して毎日「出来ないし忘れててウケる」と思って眠るようになった。

私は自分がやりたいと思ったものはあまり努力だと感じない。だけど誰かから見れば毎日の日記も努力になるんだろうか、と考える。


働いていないので、1日の歩数が12歩とかの時がある。それはスマホを一日中充電してしまっていたからだ。だが持ち歩いていたとしても自宅での運動量は知れているので300~400歩くらいに収まってしまう。

社会人だった時は肉体労働にも程があったから、毎日2万歩歩いて走って上って下った。元々体力がないもんだから、休日は睡魔しか受け入れることが出来なかった。
だがその時はもちろんどんどん痩せていったし体力もついた。あの日々に戻りたいとは思わないけど、1日に必要な運動量よりも多い運動を自然と出来ていたあの時の私に、今の私は顔向け出来ない。

当時はなぜだかどこまでもストイックだった。職場で2万歩歩き、疲れているから昼食は食べずに寝て、帰りはバスがないので20分歩いて帰って、食欲がないので発酵食品だけ食べて、バチバチに運動をして、お風呂に入って寝ていた。

でもその時は自分がストイックだと気付いていない。やりたい時にやりたいことをやって、ただ働いていただけだ。1ヶ月で5キロ痩せた。今思えばめっちゃヤバいな。

そこまでには戻れなくても、あの時のやる気を取り戻したい。

私は運動を始めた。


始めたといっても、働いている人が普通に過ごすだけで消費するカロリーを自宅で必死に得ようとしているだけかもしれない。
でも動いているというだけで、汗がシャツに染み込んでいくのを感じるだけで人生が楽しい。私はハッピー野郎なのでどこでもなんでも楽しいけれど、それが短所ではなく長所として生きているみたいだ。嬉しい。

努力を努力として判定するには、やはり結果が必要になる。毎日日記を書いて得られた長文執筆能力、頑張って働いて得られた体力と筋肉。それらは私が努力だと思ってなくても努力した証になっている。

だから今からたくさん運動して、結果を出したい。私の好きな夏がやってくるし、好きな自分で働きたい。まだ仕事決まってないけど。

努力が楽しい。そんな自分を好きになりたいと思う。

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