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「不親切な労働」パク・ジュン

誰もが抱える胸のうちや心象風景をやさしく繊細なことばで描く、詩人、パク・ジュンさん。初邦訳となる『泣いたって変わることは何もないだろうけれど』(趙倫子訳)の刊行を記念して、8月1日から4日にかけて韓国から来日し、日本の歌人・詩人と対談します。
詩人パク・ジュン ポエトリーツアー

『泣いたって変わることは何もないだろうけれど』に収録されている作品のなかから、歌人の柴田葵さん(『母の愛、僕のラブ』著者)との対談(8月3日開催)で触れる予定の、パク・ジュンさんのエッセイをご紹介します。

「不親切な労働」

 父は生涯を労働者として生きてきた。朝鮮戦争のさなか、ソウルの鍾路で生まれた父の最初の労働は、殺鼠剤を食べて死んだ犬の死体を見つけて町内の大人のところに持っていくことだった。大人たちは死んだ犬をさばいて内臓を捨て、肉を何度も水で洗ってから茹でて食べた。野生の動物もいないし、かといって家畜を飼うでもないソウル市の中心部で、貧しい人びとが肉を食べることができるほとんど唯一の方法だった。大きな犬の死体を見つけた日は、父はいつもよりいくらか多くのお金をもらった。

 それとは別に、東大門トンデムンや、清涼里チョンニャンニ 、遠くは倉洞チャンドンまで、同じ町の子どもたちと一緒に屑を拾って歩いていた。更地のようなところで、縦一列になって進みながら金属やガラスなどを拾うのだが、力の強い者から順に列が決まっていたので、前に並んでいる子どもが大きな屑を拾う一方で、後の方の子どもたちはがらくたを拾うか、そんなものすら拾えないことが多かった。

 一九六五年、父はメリヤス工場に就職して十年以上働く。普段は二交替で勤務し、仕事が減る端午(旧暦六月五日)の頃から秋まで、無給休暇を取らされる工場だった。全泰壱チョンテイル烈士〔訳注:労働運動家(一九四八〜一九七〇)。工場における労働実態や労働環境の改善を求めていたが、一向に改善されないことから一九七〇年十一月、抗議の焼身自殺を図った〕が、近くの平和市場にやって来たのがその頃だったから、あえて父から詳しい話を聞かなくても、当時のそこの労働環境について推測することは難しくはなかった。

 三十歳頃から、区庁の技能職公務員として働いていた父の暮らしについて、少し詳しく話したい。父は、収集員が町内の路地をリヤカーを引いて集めた生活ごみをトラックに載せ、蘭芝ナンジ島の埋め立て地を行き来していた。その頃は、僕もよくついて行った。

 幼い目から見た蘭芝島は砂漠のようだった。砂丘のような大きなごみの山が、一日にいくつもできては消えた。だだっ広くて殺風景な蘭芝島の風景よりも、もっと鮮明な記憶として残っているのは、そこを生活の拠点として暮らしていた屑拾いの人たちだった。

 屑拾いの人たちは蘭芝島の入口で呼び込みでもするかのようにして、父のトラックを止めた。すでに大きなごみの山になってしまっているそこを歩かずにトラックに乗って上って行くためだ。日が暮れる頃、彼らはもう一度父のトラックに乗って坂道を下りてきた。

 僕が父について行った日は、彼らは昼間にごみの山から掘り出したおもちゃのロボットのようなものを僕の手に握らせてくれたものだ。どれも片方の腕や足が取れてしまっていた。あるときなどは、片方の目がないぬいぐるみを手渡されたこともあった。それを見た父は、小さなボタンでなくなった方の目を作ってくれた。

 二〇〇二年には僕は大学生になり、蘭芝島は自然公園となって、屑拾いの人たちが暮らしていた上岩洞サンアムドン にはワールドカップ競技場が建設された。そして父はあいかわらず労働していた。その頃僕は、幼い頃見ていた蘭芝島の風景を探してみようと関連資料を集め始めていた。

 一九七八年にできた蘭芝島埋め立て地は一九九二年に永久閉鎖された。九十万坪の敷地のうち、実際にごみを埋め立てることができた面積は五十五万坪ほどだった。これらは再度、ソウル市内の各区庁がごみを捨てる二十万坪の土地と、清掃代行業者の車両がごみを捨てる三十五万坪に分割される。再建隊員と呼ばれたりもしていた屑拾いの人たちは、三千人以上にまで膨れあがった。さまざまな利権が介入し、屑を拾うのにも権利金が発生したが、江南カンナム区、鍾路区のような上流層が主に住んでいる町では、権利金も相場の倍ほど高かったという。

 高校三年、大学入試を翌日に控えた日、父は普段あまり入ることのない僕の部屋に入ってきた。そして、僕に試験を受けるなと言った。明日試験を受けたら大学に行くことになるだろうし、大学を卒業すれば就職をするだろうし、そうこうするうちにやがて結婚し、子どもを持つ可能性が高くなるだろう。そんなふうに生きることを疑いもせず、ごく当たり前のように思うかもしれないが、実際にはとても不幸でしんどいことなのだと。特に家族ができればその不幸は本人を飛び越えて、愛する人にまで及んでしまうのだから、ここでその不幸の糸を切ろう、寺を探してやるから、出家することも考えてみろとまで言うのだった。当時の僕は、そんなことを言われてすっかり腹を立ててしまい、父に出て行ってくれと言った。けれど、労働と人生にすっかりくたびれ果ててしまった日に、愛する人のまなざしから微かな貧しさが感じられたりすると、僕はあの時の父の言葉を思う。

 近代以降、人間がすべき労働は爆発的に増えた。観念的には非常に神聖な価値あるものと考えられたが、現実にはそうはならなかった。特に誰がやっても同じような結果になる類の労働は、この上なく冷遇されるようになった。もうずいぶん前から労働は、世界を構成するものではなく、世界を消費するために存在しているものなのかもしれない。

 これまで詩を書いていて、僕は何度も父の労働を作品の中に登場させてきた。詩の中で父は、塵肺じんぱい 症で死んだ太白の炭鉱夫としても登場し、コミュニティバスとダンプカーを運転したりもし、練炭を運んだり、失業して坡州パジュでひとり暮らしをしているアルコール中毒患者として描かれたりもする。事実もあればそうでないものもある。

 太白に住んでいるある読者から手紙をもらったことがある。自分の父親も炭鉱夫として生き、塵肺症で亡くなったという内容で始まる手紙だった。うれしさと悲しみの両方が込められたその手紙に返事を書いた。手紙の最後には次のように書いた。

 申し訳ないのですが、私の父は実際には炭鉱夫として暮らしていたことはありません。そして今も元気でいます。太白と炭鉱夫が登場する詩は、数年前に鉱山に関する詩を依頼され、取材をしたうえで書いたものです。取材をしていてとても印象深かったことがあります。坑道での作業を終えて、地上に上がってきた炭鉱夫たちがみんな笑っていたことです。声を上げて笑うというのではありませんが、微笑んだときに見えた白い歯が、本当に鮮やかでした。私がなぜ笑っているのかと尋ねると、彼らは当たり前じゃないかと言うように、仕事が終わったから笑っているんだと答えました。
 炭鉱夫の人生と私の父の人生はとてもよく似ています。一日の仕事が終わったということだけで喜ぶ姿が、そして人生のほとんどを労働と次の労働を準備する時間の中で過ごしてきたということも。睡眠欲、食欲のような、人間の基本的欲求だけを満たすのに追われているうちに年をとり、病を得たこともやはりよく似ています。

 この地の労働者たちは、先行きのわからない自分の人生がいつ終わるの
かについては知りませんが、ひとたび始めた仕事の終わりについてはとて
もよく知っていました。事実でない内容を事実のように書いて申し訳あり
ませんでした。ですが、いたるところに散らばっているさまざまな事実を
集めて、微かにでも真実の輪郭を描いてみたかったのです。重ねてお詫び
申し上げます。

■BOOK INFORMATION

セレクション韓・詩04
『泣いたって変わることは何もないだろうけれど』
パク・ジュン著|趙倫子訳

▼ためし読み

■刊行記念イベント:詩人パク・ジュン ポエトリーツアー開催のお知らせ

パク・ジュンさんが日本各地を旅しながら、同世代の歌人・詩人たちとのトークイベントを行います。ぜひお近くの会場で、オンラインで、韓国と日本の詩のことばの世界をともに旅してみませんか。

8月1日(水)19:00~20:30 本のあるところajiro(福岡)※配信あり
パク・ジュン(詩人)×石松 佳(詩人)対談「アンニョン、言葉たち」

8月3日(土)18:00~19:30 CHEKCCORI(東京)※配信あり
パク・ジュン(詩人)× 柴田 葵(歌人)対談「사랑(サラン)、愛、ラブ」

8月4日(日)15:00~16:30 大阪韓国文化院(大阪)
韓日ポエトリー対談 パク・ジュン(詩人)× 岡野大嗣(歌人)
モデレーター:江南亜美子(書評家)
*大阪会場は受付を終了いたしました


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