見出し画像

30分で1パラ! 〜これからの「働き方」を考えるための"無料"オンライン読書会〜6/13(土)午前10時から

新鮮で濃厚な「読書」体験

突然ですが、みなさんはどのような「読書」をしていますか?

改めて考えてみると、様々な「読書」があるのではないでしょうか。
例えば、
通勤中の電車の中でする読書、
寝る前にリラックスしてする読書、
面白くて夜更かししてまでする読書、
仕事や勉強のため必要に駆られてする読書、
一冊の本が好きで何度も繰り返し読んでしまうということもあるでしょう。
そしてもちろん、読書会に参加するというのも読書の一つのあり方です。
様々な「読書」があってよいと思いますし、あるべきでしょう。

いろんな「読書」がある中で、今回ご紹介するイベントは、
これまでとは全く異なった、新しい「読書」を体験していただくものです。

参加者のみなさんの声

これまでカルチュラルワークらぼで読書会を開催してきて、参加者の方々からは口を揃えて「こんな深い読書は経験したことがない」という感想を頂戴しています。
実際に実施した読書会の内容は下記マガジンにまとめています。

当らぼでは、参加者のみなさまと共に、"一段落ずつ"丁寧に内容を考察していきます。その意味や意義を話し合い、また具体的、現代的な事柄に落とし込みながら、一冊の書物を読み進めています。一段落を読むのに数十分かかることしばしばです。

なぜ深いのか?
当らぼでは、ひとつひとつ言葉が背負う歴史やバックグラウンドを紐解いていくからです。
また、みなさんと読むことで、1人で読んでいては得られない様々な気づきや新しい読み方の発見があるからです。

何が得られるのか

そうした読書の中で、文字情報を多角的かつクリティカルに読み解き、考えることが自然と身についていきます。実際、継続的に参加してくださっている方々からの質問が日に日に鋭くなってきていて、私も少したじろいでしまうことがあります。

実はこうした「読書」は大学や大学院における哲学の講義では日常的に行われていることで、しばしば「講読」と呼ばれます。講読では、テーブルを囲んで同じ書物を開いて1文ずつ、1段落ずつ順番に読み、じっくりと議論していきます。1冊の書物を読み通すことよりも、いかに掘り下げ、いかに広い視野から読むかという点を重視する読み方です。大学で哲学を学ぶ学生たちは、この講読を通して、多角的な読み方や論理的な考え方を習得していきます。(私も哲学科ないし哲学研究科で育ってきたので、こうした読書が多くの人々にとってはあまり馴染みのないものであることに最近まで気づきませんでした。)
ビジネス書で"クリティカル・シンキング"と呼ばれているものは、実はこうした哲学の伝統の中で育まれてきたものなのです。
当らぼでは、普通なら大学の哲学科でしか味わえない"新鮮で濃厚な"読書体験をどなたでもご参加いただける形で提供しています。

30分で1パラ!

そこで今回は、上述したような読書を30分に凝縮して今だけ無料で体験していただける機会をご用意しました。
具体的には、1段落を30分かけて読み解く!という企画です。
「100分で名著」という番組がありますが、その逆パターンです(笑)
ひたすら1段落を30分かけて読み解きます。
たったの1段落、たったの30分ですが、普段使わない筋肉を使った後のような心地よさが残る読書を体験していただけると思います。

参加を希望される方は、以下に引用する1段落を読んだ上でご参加ください。
ハンナ・アレント『人間の条件』「第六章〈活動的生活〉と近代」「第45節 〈労働する動物〉の勝利」に登場する1節です。
少し難しいと思いますが、わからなくても全く問題ありません。1箇所でもひっかかるところがあれば、自分なりにいろいろ考察してみてください。そして是非、"30分で1パラ"読書会にてアウトプットしてみてください!
1つだけこちらからみなさんに"問い"を投げかけておくならば、
この1節は私たちの「働き方」とどのように関係するでしょうか?

既に見たように、社会の勃興において自己主張したのは究極的には種の生命であった。理論的に言えば、個々の「自己中心的な」生命に対する初期近代の強調から「社会的」生命や「社会的人間」(マルクス)に対する後の強調への転換が到来したのは、マルクスが古典経済学の粗野な観念――あらゆる人々は行為する(act)限り自己の利害関心のために行為する(act)――を改変し、社会の諸階級を活気づけ、動かし、方向づけ、またその諸闘争によって社会を全体として方向づける諸力へと転化させたときであった。社会化された人類というのは、たった一つの利害関心だけが支配し、またこの利害関心の主体が諸階級や人類であり、人間でも人々でもないような社会の状態である。要点は、今や、人々が行なっていた活動の最後の痕跡、すなわち自己の利害関心に含まれていた動機さえ消滅してしまった、ということである。残されたのは、「自然の力」、すなわちあらゆる人々とあらゆる人間的な活動が等しく屈服する生命過程そのものの力であり(「思考過程そのものは自然の過程である」)、その力の唯一の目標は、目標のようなものがあるとして、人間という動物種の生存である。人間のいかなる高次の能力も、個々の生命を種の生命に結び付けることにとってはもはや不必要である。すなわち、個々の生命は生命過程の一部となり、必要とされたのは、労働すること、ないし自分自身の生命と自分の家族の生命の存続を確証することだけであった。必要でないもの、生命による自然との新陳代謝によって必要とされていないものは、余分であるか、他の動物の生命と区別された人間の特殊性という点でのみ正当化された――それゆえ、ミルトンが『失楽園』を書いたのは、蚕が絹を生産するのと同じ理由と衝動からであったと考えられた。/ もし現代世界を過去の世界と比べるならば、こうした発展に含まれていた人間的経験の喪失は極めて衝撃的である。〔こうした発展の中で〕完全に無意味な経験になったのは、観想だけではないし、観想が主要なものであるわけでもない。思考そのものは「結果を計算に入れる」ことになったとき頭脳の一機能になり、その結果、電子機器〔コンピューター〕のほうが我々よりもずっと上手くそうした機能を果たすと考えられている。行為(action)はすぐに、もっぱらほとんど作ることと制作することという点から理解され、未だにそうである。〔そして〕制作だけは、その世界性と生命への内在的な無関心さゆえに、今や労働の別の形態としてのみ捉えられているが、〔それもただ〕より複雑でありながらもより神秘的であるわけではない生命過程の一機能としてのみ捉えられている〔にすぎない〕。(訳:たし)

Hannah Arendt, (1958) The Human Condition, Chicago: University of Chicago: pp.321-322.
cf. ハンナ・アレント、志水速雄訳『人間の条件』(ちくま学芸文庫、一九九四年)498-499頁。

みなさんが自由に書き込めるホワイトボード(当らぼでは「読みタグ」と呼んでいます)をご用意いたしました。この1節を読んで思いついたことを書き込んでみてください!もちろん当日参加できない方の書き込みも大歓迎です!

募集要項

場所:Zoom(音声・画面共有のみで顔出しなし!リンクは当日共有。)
日時:6/13(土) 午前10:00〜10:30
参加費:無料!
募集人数:3〜5名(3名以上で開催)
(ご友人などをお誘いの上、ご参加でもいただいても構いません。)
応募方法:後掲の Google Forms

運営メンバー:

以上

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?