私という実体が無いのになぜ私がいると感じるのか?①
私は相対的な関係性の中において規定される
私(自我)という実体が、行為の主体として存在すると感じている。
「~に注意する」、「~を感じる」というとき、注意している私、感じている私が存在することを前提としている。
私(自我)は、その時々の注意の対象と、これまでの記憶(経験)が紐付くことで生じる。
私とはモノゴトの関係性において、相対的に規定される概念であって、「私という実体」は存在しない。
その対応関係が変化する度に、新しい私(と言う現象)が生成、消滅を繰り返している。
会社や学校にいるとき、家にいるとき、それぞれの状況に応じて様々な「私」が生じる(会社員、学生、親、子供)。
ある日突然記憶を無くしたならば、もうそこに昨日までの私はいない。
私(自我)は消せるか
多くの人は私がいるという前提に立って、自我を「消そう」とする。
そもそも私という実体がないのだから、消そうとしても消える訳がない。
※上述の通り、次から次へと湧き出てくる。
とはいえ、私(自我)が「ここに居る」という実感がある。
世界に対して主体的に働きかけることも出来る。
(自由)意思もある様に感じる。
私がいないのであれば、いまリアルに感じているこの世界を、誰が経験しているのか。
明確な自他の区別も存在する。
敢えてモノゴトを主従の関係で見たとき、主は世界で、従は(私も含め)その他になる。
私は、世界からの働きかけに対し反応しているだけで、世界(刺激)があって私(反応)がある。
(仏)法があって意が生じる(厳密には一如)。
この私という反応の方を起点に、主従を逆転してしまうことで、主体としての私がいると錯覚してしまう。
錯覚だから多くの矛盾、倒錯、苦しみ、葛藤が生まれる。
どのようにして世界が私を生じさせているのか
何の変化もない、瞬間だけの世界であれば、私は生じない。
そもそも生命が生じないし、分別する意味もない。
ただ、事実としてあらゆるモノゴトは常に変化し続けている。
宇宙開闢のときのエネルギーがあるから。
宇宙は拡大し続けているし、その推進力で変化し続ける(諸行無常)。
その影響から逃れられるモノはない。
いやでも突き動かされる。
変化があれば刺激が生じる。
刺激があれば反応が生じる(縁起)。
風が吹けば葉が揺れる。
世界(環境)からの刺激を受け、脳が習慣的に反応することで、行為が生まれる。
行為はただの(変化の)結果に過ぎない。
ただの結果に過ぎないモノ(行為)に、思考は意味付けを行う。
意味付けとは差を認めるということ。
差を認めることが分別になる。
分別には主体と客体が生じる。
行為に対する分別が私(自我)という主体を生じさせる。
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