魔、見ルカ

零 そこに居ぬモノ

月明りの夜。穏やかな海。小舟が一艘、浮かんでいる。船縁に括りつけられた篝火が、ゆらゆらと揺れている。炎に照らされて、微かな人影が二つ、船の上に見える。大柄な男と、少女。そんな風に見える。

「物好きだね、こんな夜にさ。生粋の船乗りだって、小舟で夜に繰り出したりしないよ」

艶っぽい女の声。

「波の上で感じる夜風ってのは、格別だろ?おまえだって、なんだかんだ、つきあってるじゃねえか。物好きな俺に」

男の声は、美声だ。聞き惚れてしまうような良い声だ。

「嫌な奴。……故郷でも、こんな風に夜遊びしてたのかい?」

「どうだったかな……もう忘れちまった。なあ、俺の言葉、まだおかしいか?」

少女のような影が首を横に振った。

「そうか。じゃあそろそろ言ってよいな?」

「何をだい?」

男の影が少女に近づいた。その耳元に何かを囁いた。少し、間があって、

「……本当に嫌な奴」

波風が、二人を包み込む。

「おまえも俺も、ここにはいないはずの者だ」

「……そうだね。そうとも言える」

「俺は、俺たちのような奴らが集まれる場所を作りたいんだ」

「うん。でも、あたしは、」

女の声は、波の音に掻き消された。

「おまえにも、それを手伝って欲しいんだ」

少女の影は、砂山が崩れてゆくように、ゆっくりと頷いた。

「俺たちの国、居ぬモノたちの国を」

急に立ち上がると、男は海に飛び込んだ。笑って、少女もそれに続いた。漆黒の海が、二人を呑み込んでいった……。

壱 熊野三党

木洩れ日の突き刺さるような森の中を、影がひとつ、左右上下、浮いたと思えば沈み、屈んだ途端に飛び、縦横無尽に奔っている。速い。そして予測できない。大木、叢、岩、森の中の様々を擦り抜け、跳び越え、影は次第に加速してゆく。はっ、はっ、と塊を飲み込んでは吐き出すような呼吸が続く。

「小黒!」

野太い声がかかると、影はびくっと震え、そして躓いた。勢いのまま地を滑るように転がってゆき、どん、と岩にぶつかる。

「痛っ……」

声をかけた大きな男が、呻いている影のもとに近づいてゆく。太い脚、太い腕、厚い胸板。無精髭に覆われた顔には、笑みが浮かんでいる。

「良範、おめえよう」

小黒と呼ばれた小柄な影は抗議の声をあげながら大男を見上げる。その拍子に光が顔を照らす。土埃に覆われた髪、子供のように輝く双眸、その顔は丸っこい輪郭。手足は細く柔軟そうだが、無駄なく鍛え上げられているのが見てとれる。

「小黒、遊んでる場合じゃないんだよ」

「遊んでんじゃねえぞ、これも鍛錬だ」

「鍛錬?」

良範という名らしい巨漢は、笑いを崩さぬまま小黒のもとに近づき、ひょい、とまるで子犬か何かを扱うように掴み上げると、手足をばたつかせて暴れるのを無造作に地面に降ろし、彼がもたれていた岩を両腕ではさみこむようにして抱えあげた。それは、百五十斤(90kg)ほどはありそうな大きさだが、良範は息も乱していない。ふん、と鼻から息を吐き出し、身体を反ると同時に放り投げた。巨体が、柔らかくしなる。岩が地に落ちた時、近くの小石や枯れ枝とともに、小黒の体がぴょんと跳ねた。

「鍛錬というのはこういうものだろうが?」

言われた小黒は、もはや怒っていない。むしろその瞳を輝かせている。そして迸る、賛嘆。

「やっぱすげえな、良範の馬鹿力は。いやあ、何度見ても惚れ惚れするぜ」

大男は気を抜かれたような顔をして小黒をしばらく見つめる。そして、深く溜息。

「行くぞ、豊成が呼んでる」

言うと、小黒を再びつまみあげる。今度は抗いもせず、小黒はするすると良範の体を登っていく。そして肩車。ぶつぶつ言う良範と、楽しそうな小黒。一体となって、二人は森を抜けていく。

黒塗りの太刀を佩いた端正な顔立ちの男が、朱塗の柱に背を預けて、舞い散る木の葉たちを目前に眺めている。しばらくそうしてから、目を閉じた。ふっ、と強く息を吐く。その影響を受けて葉が一枚、くるくると回転しながら、男から遠ざかるように横滑りする。

男は柱から身を離し、ゆっくり静かに抜刀する。そして大上段に構える。通常の刀とは異なる両刃の切っ先が陽光を浴びて輝く。目を閉じたまま、男は刀を振り下ろす。すべてが穏やかな動きだ。速くもなく、力もさほどこめられていない。刀の重みのみで自然に落下するかのような動き。

切っ先が地につかんとする寸前で刀が止まる。すると、真っ二つに寸断された葉が刀の両筋を滑るようにして落ちた。目を開け、落ちた葉を拾うと、男は不満そうに顔をしかめた。

「それのどこが駄目なんだ?」

声をかけたのは、あの巨漢、良範だ。今まさに森を抜けて里に戻ったばかりの彼は、まだ肩に乗っていた小黒を下ろしながら怪訝な顔をしている。

「まだ、力で斬っている」

声をかけられた男は良範に答えた。

「あの遅さで、力も入れず、どうやって斬るんだよ、豊成。浮かんでる葉を斬るだけでもそうそう出来るもんじゃねえぞ」

小黒も良範に加勢するが、豊成と呼ばれた男は不満げな顔を崩そうとしない。飽くことなくいつまでも葉の断面を見つめている。

「烏の斬れ味は、まだまだこんなものではない。こいつが自由に羽ばたけないのは、俺の未熟ゆえ……」

烏、それが男の持つ刀の銘らしい。

「おめえ、どれだけ……」

言いかけた小黒を制して、良範が豊成に近づきながら、

「で? 話ってのはなんだ」

「都から使いが来た。熊野三党としての我々にだ。だから揃ってもらった」

「例の……鬼どもの件か?」

豊成は無言で頷く。そして抜いていた太刀を再び鞘に納める。その所作をきっかけに、三人は揃って屋敷の中へと入っていく。

弐 襲来

一月ほど前ーー真夏日。熊野の人々は連日の猛暑を凌ぎながら、天候が変わるのを待ち焦がれていた。その日も朝から雲ひとつない晴天で、人々の気分は沈んでいた。だからーー夕方頃、雨雫がぽつりぽつりと落ち始めると、小躍りして喜ぶ者もいれば、天に向かって祈りを捧げる者もいた。しかし、その歓喜も長くは続かなかった。瞬く間に豪雨となり、どこからともなく集まってきた黒雲が急激に天を覆っていくと、人々はその異常さに不安を感じ始めた。

空は更に乱れ、ついには長老たちでさえ記憶にないほどの荒天となった。大粒の雨にはそのうち雹までもが混ざり、それらが凄まじい暴風とともに熊野の地を叩きつけた。慌てて家に入った人々だったが、その家ごと吹き飛ばされる者も多数いた。天への感謝は呪詛となり、そしてーーそして、その呪詛に応えるように、山から異形のモノたちがやってきた。

ソレと最初に遭遇したのは、山で鹿狩りをしていた猟師だった。狩人としての長年の経験から、彼は雨音が聞こえ始めた時点で異常を感じ取っていた。慌てて荷物をまとめ、下山するため足早に進んでいると、木の上から何かが落ちてきた。みたことのない、生き物が。

猿……違う。人……? 猟師は反射的に荷を捨てて地に転がり、半身を起こすと同時に手槍を構えた。音もなく着地したそれは、人で言えば子供くらいの背丈だったが、己の身の丈ほどもある湾刀を構えていた。顔は人と変わらない。露出している肌を覆いつくすように入墨している。服は最小限、腕と脚の筋肉が異常に発達している。そして、爛爛と光る眼。

目と目が合うと、それは、人とも獣ともつかぬ唸り声で怒りを表現した。鋭い牙に、ぬらりと滴る唾液。その生き物が発した怒りは、猟師にとっても身近なものだった。ーー獲物を、うまく仕留められなかった自分に対する怒り。こいつにとって、俺は獲物か。猟師は察して、この相手の危険さを真に理解した。冷や汗が背を落ちる。自分の半分ほどしかない目の前のモノに、巨熊と相対したとき以上の恐れを感じていた。

じりじりと距離を詰めてくる鬼ーーそう呼ぶしかないだろう。相手と同じ速度でじりじりと後退しながら、猟師は死を覚悟した。獣なら、どんなに大きなやつでも素早い奴だろうと仕留める自信がある。やったことはないが、人を相手にしても、たいていの奴には勝てるだろう。それだけ、生き物を追い、襲い、傷つけ、仕留める技術を身に着けてきた。しかしこのモノーー鬼は別格だ。熊の強さと猿の早さを両方備えている、だけではなく、人間以上の凶暴さと狡猾さが感じ取れる。

急に強くなってきた雨に打たれながら、頭の中で幾つもの展開を予想する。そのすべてが、容易く鬼に斬殺される自分の無残な亡骸へと結びつく。猟師としての知識も勘も、圧倒的な悲観しか生まない。どう動いても、相手を上回ることはできないだろう。駄目だ、いったいこんな化け物相手にどうすれば……

いや待て。呑まれるな。あれがある。回収し忘れていた。そうだーー猟師は手槍を投げつけた。雨粒を弾き飛ばしながら、槍は緩やかな弧を描いて鬼へと向かう。猟師は足腰に力を込めた。そして小鬼が飛び退いた隙に、地を蹴り、木々の合間を縫うように走り出した。少し距離を空けて、ざっざっざっ、と鬼が追ってくる。追われるのは嫌なものだな、猟師はそう思った。もし生き延びられたら、もう殺生はやめよう。そう思った。そして、目指した場所へと辿り着いた。彼我の距離は相当に縮まっている。しかし、だからこそーー

障害物の多い森の中、全く速度を落とすことなく正確に自分の後を追ってくる鬼の動きは、やはり尋常ではない。しかし、だからこそ予想するのは容易かった。猟師は絶好の位置に鬼を誘導できた。木の陰から飛び出してきたそれを見据えながら、濡れた落ち葉で覆われた地を、たん、と踏む。その足の横から飛び出した細槍が、今まさに襲い掛かってきていた小鬼を空中で捉えた。

フムハナチ。『日本書紀』によれば、仏教の道徳観に影響を受けた天武天皇が禁肉食令によって使用を禁じた、狩猟用の道具である。漢字で書くなら機槍。それから百三十年ほどが経過していたが、熊野の山林にはまだその禁令が浸透しきっていなかった。

腹部を貫かれた小鬼は槍の勢いで後方に飛ばされ、穂先は鬼ごと大木に突き刺さった。並の獣なら一撃で絶命してもおかしくないほどの重傷だが、鬼は自分の腹に生える槍の柄を掴み、暴れていた。猟師を睨みつけ、声をあげようとするが、その口からは真っ赤な血がごぼごぼと溢れるばかり。雨と混ざった赤い液体が、ぼとぼとと落ち、地を染める。両脚が地面についていない状態では力をこめることもままならず、流血とともに次第に力を失っていった。

生涯ではじめての敵ーー獲物ではなく、敵。その目から光が失われるのを見て取ると、猟師は近づいた。そして、鉈で相手の首を切り落とした。それは本能的な行動だった。

まさに九死に一生。襲われた場所が罠の近くでなかったら、まず間違いなく狩られていた。だが、安心も勝利の喜びも彼にはなかった。幾つもの気配があちこちから近づいてきているのを彼は感じ取っていた。すぐにでもこの場を離れて、知らせなければ。鬼たちのーー襲来を。

猟師が去ってしばらくすると、変異が起きた。縦長に偏ったつむじ風が、雨を吹き飛ばしつつ、舞い上げられた葉や小枝とともに小鬼の遺骸へと近づいてきた。木々の合間を縫うように動くつむじ風、というだけでも異様だが、更に不可思議なことに、その旋風の中に朧げな人影があった。細身長身の姿が、つむじ風の中心部に居た。舞い散る土埃や枯れ葉に隠されて曖昧ながら、山中には相応しくない格式高い装いに見える。

風は次第に弱まって、人影も定まってきた。それは、初老の男だったーーそのように見える。束ねられた白髪、豊かな白髭。緑の位襖に白の袴、黒い履。そして吊られた横刀。冠こそ頂いていないが、それは表面的には武官の朝服のようだ……しかしそのようでありながら、ひどく怪しく、禍々しい。衣服のあちこちを覆うが如く、漢文による呪詛が記されている。その文字ひとつひとつが生き血のように赤黒く、そして時折、血管のように不気味に脈打つ。目を包み隠すように巻かれた布。その布に視界を奪われながらも、彼は障害物の多い山林を苦もなく進んできたのだ。つむじ風を操る能力も含め、彼もまた人ならざるモノーー鬼であった。

つむじ風が完全に消えるのを待っていたかのように、あちこちから大小様々な鬼が集まってきた。それら鬼たちが見せる、敬うような畏れるような態度。それは風使いの鬼が特別な存在であることを示していた。

「孔子さま」

「何か」

孔子、確かにそう呼ばれた異能の鬼が物憂げに答えると、長物を背にした鬼が続けた。その額から、一本角が生えている。

「仇を討ちますか」

言葉は質問だが、口調は事実を確認している風だった。仲間を殺めた者を討つのは当然だ、とでも言うかのような。

「貴様の縁戚だったな、確か」

孔子の言葉に、長物持ちの鬼は少し驚いたような顔をした。

「こやつは」

言いながら、孔子は胴から離れた小鬼の首を拾い上げた。

「この者は、我が命に従わぬから命を落としたのだ。そも、軍命に従わぬは罪である。本来ならば、縁者たる貴様にも罰を与えねばならぬところ……」

孔子の身体から放たれた突き刺すような気が、長物持ちの鬼を射すくめた。その瞬間、哀れな鬼の耳はほとんどの音を拾わなくなった。雨はいまだ激しく降っていた。周囲の鬼たちが身につけている武具も揺れ動きながら物音を立てているはずだ。動揺して乱れ始めた己の呼吸音は、他の鬼たちの耳にすら、さぞかし惨めに響いていることだろう。しかし、それらの音はもう聞こえなかった。二つの音を除いて、他は聞こえなくなっていた。

二つーー孔子の声と、自らの鼓動。

「我々は皆、血に呪われた者だ」

言いながら、孔子は衣服に記された呪詛を指でなぞる。すると空気が重く冷たくなり、息苦しくなった。そして鼓動が早くなる。

「その呪いからいま、解き放たれようとしている」

孔子の指が複雑に動く。凍えた空気を吸うことは困難で、鼓動は前と次の区別がつかないほどに早くなっている。

「この者も、貴様も、我々は皆、奴らにはない力を持っている。なればこそ、自らの力のみを恃み、個別に、或いは少数で奴らを襲い、そして殺されてきた」

呼吸は完全に止まった。口の中に留まる空気は、まるで氷塊のようだ。鼓動は少しずつ遅くなり……

「我々は、結集する。集って、ともに新たな世を築く。それは何よりも重んじられるべき大義である。その大義を前に怒りや欲を抑えられぬ者は、……無様に死ぬ」

鼓動が完全に止まり、膝を屈して緩やかな死を迎えつつあった鬼の意識が消し飛ぶ寸前に、孔子の指が彼の頭に触れた。すると全ての音とともに呼吸と鼓動が戻った。喉に、胸に、吸い込んだ空氣が摩擦する。孔子は片手に抱えていた首を、喘ぐ鬼の横に置いた。

「その者を弔ってやれ。長くは待てぬぞ」れは感謝であったか、それとも……

鬼との遭遇を切り抜けた猟師の警告を、受け入れる者、拒絶する者、山村の住民は半々に分かれた。山を跳梁跋扈する鬼たちの噂は、多くの者が聞いていた。遠巻きながら実際に目撃した者も数名いた。時には女子供が攫われたり家畜や農作物が奪われたりしたこともあった。山奥に入り込みすぎた老人が惨殺されて見つかったことも……しかし、それらの被害は山で暮らすならよくあること、いわば熊や猪による害と同等だと見做されていた。鬼が集団で人里を襲うなどという話は誰も聞いたことがなかった。

雨脚は更に強くなっていた。この豪雨の中、村を離れるほうが危険だ、という意見もあれば、この尋常ならざる大雨は鬼どもの仕業だったのかと合点する者もいた。猟師の警告を深刻に受け止めた者たちは、村から離れ、近くの洞穴などにしばらく身を隠すことになった。半信半疑で村に留まった者たちも、それまで以上に備えを強固にした。

体力のある若者を中心に、件の猟師を含めた数名の男たちは、救援を求めて村を出た。そして、ずぶ濡れになり草臥れきった表情で神倉山の麓へと辿り着いた。そこで小黒と出会った男たちは、猟師が主となり鬼たちのことを話した。

襲撃の兆候を聞き知った小黒は疑うことなくすぐさま手勢を集め、豊成と良範に使いを出した。そして二人を待たず、村へと急行した。小黒たちが到着したのは、猟師が鬼との死闘を潜り抜けてから十二刻(六時間)ほどが経過していた頃だった。しかし虚しく、村は半ば崩壊し、多くの村人が惨殺されていた。すさまじい力で身体の一部をもぎとられたような者あり、中空で巨木の枝に突き刺さっている者あり、あちこちに無残な屍が散乱している。

奇妙なことではあるが、何か大きなものが村の中央を一筋に進んだかのような破壊のされ方であり、鬼たちが体躯や武具を用いて殺害したように見える屍はほとんどなかった。村の両端にある家やそこに住む村人たちは全く被害を受けていなかったし、村の外に避難していた者たちも皆、無事であった。

やや遅れて、豊成と良範も到着した。急報を伝えた猟師たちも一緒だった。彼らは蒼白な顔で身内の無事を確かめに散った。三党の男たちは、一部が村に残って鬼たちの後詰めに対する備えと生存者たちへの支援を行いつつ、他は襲撃者たちを追うことにした。惨劇を前に、皆、無言だった。

鬼達の非道は村の外にまで及んでいた。孤立した民家や、偶然遭遇してしまったのだろう旅人など、様々な破壊や殺戮。それらを辿るようにして進んでいるのだから、気が滅入ってくる。

いつもは饒舌な小黒すらもが無口で、まるで葬列か何かのような雰囲気だったが、歩を進めるにつれ、次第に士気は高まっていった。怒りや復讐心が熊野三党の面々を昂らせていた。

風雨が徐々に弱まると日も暮れてきていたが、足を止めようとする者はだれもいなかった。

だから、鬼達の足跡が消えたという事実を確認したとき、男達は嘆息ではなく怒号によって自らの感情を表現した。痕跡からして数百はいただろう鬼どもが突然消えたのだ。内に秘めて燻らせていた怒りの種火が堪えきれずに弾け飛んだ。

「おかしい。変だ。奇妙だぞ、これは。不思議だ。奇天烈」

地面を詳しく調べていた小黒が、ぶつぶつ言い始めた。

「同じ意味をそんなに並べんでも、いずれか一つにしろ。どうしたんだ、何がおかしい?」

良範の問いに答えた、というより独り言の続きのように小黒が呟く。

「奴らは村を襲ったんじゃなかったんだな、奴らは通り道を作っただけだ」

「通り道?」

豊成の問いに、ようやく小黒は目を上げた。二人の視線が一瞬、合う。しかし次の瞬間には小黒の目は全く別の場所に向けられていた。遠く離れた場所に。

「見ろ、奴らは海にいる」

小黒に促されて、三党の面々は眼下の海を見た。無数の灯火が海を覆っている。それは純粋に壮観な、そこにいる誰もが初めて見る光景だった。

「あの灯り一つ一つが船だとしたら…」

良範のいつも野太い声が珍しく小さい。

「数百……いや、千ほどあるやもしれんな」

豊成の声は半ば感心しているようにも聞こえる。

「しかし、小黒よ、ここで消えた鬼ともがどうやって……海までは一里(歩いて一時間くらいの距離)、いや二里ほどもあるぞ?」

「だから不思議なんだ、良範よ。自分でも自分の考えを正気だとは思えん。だが、だがな、見ろ、あれを。それも。そっちのもだ」

小黒は順々に指をさしていく。指先には衣服の切れ端のようなものや、草履、帯などが地面に落ち、木の枝や草むらに引っかかっていた。一つや二つではない。無数にある。そしてそれらは全て、三党が立ち尽くしている場所から海へと向かう直線上にあった。

「おそらくは、ここから海までの一本道にまだまだいくつも落ちているだろうさ、もしかしたらついてゆけずに落下した鬼の死骸だって一つ二つ見つかるかもしれん」

「小黒、おまえの言う意味がわからん」

良範が言うと、思慮していた豊成がボソリと言った。

「妖術使いか……おそらく、竜巻のようなものを操る」

「たつまき?あの竜巻か?竜巻に乗って飛んでったっていうのか?数百の鬼どもが一斉に?」

「そのようなものを操る鬼がいるとしたらあの村の被害も理解しやすい」

「む……」

確かにそう考えれば幾つかの事実をまとめて理解できる。ただしそのためには異常な仮定を幾つも受け入れなければならない。まず数百もの鬼が群れて人里を襲い、そこには強力な妖術を使う者もいて、数百の鬼達はその妖術使いの生み出した巨大な竜巻に乗って、二里も先の海まで空を飛んだ……そんなことがあるか?良範は逡巡していた。

「おそらくは山の麓から、村の真ん中を通り、そしてここまで竜巻が移動してきた」

小黒の声が追い討ちをかけるように響いてきた。

「その通り道にあったものは、建物だろうが、人だろうが、全て蹴散らされた。……そしてここに集った鬼達をまとめて吹き飛ばした」

「そしてあれらが零れ落ちた……」

散乱する鬼達の遺留物を指差しながら、豊成が続ける。受け入れがたい事実に良範は頭痛を感じた。

「しかし船は?あらかじめこしらえておいて一緒に飛ばしたとでも言うのか?」

「そうではないだろう。おそらくは、最近ここらに集まってきて暴れている例の海賊たちが用意したのだろうな」

「鬼と海賊が手を結んだというのか、豊成」

「これも、推測に過ぎないが……襲われた漁村からの報告にもあったが、奴らはただの海賊ではない」

「報告……報告か。確かにあった。確かにな。しかし今の今まで信じていなかった。なにせ、どんちゃん騒ぎが大好きで、話を膨らませるのも大好きな漁師たちの報告だ……いたんだな。山だけでなく、海にまでいたのだな、鬼達が」

ゆらめく無数の舟燈を遠く見つめながら、良範はもう抵抗を諦めた。明らかに異常なこと全てを信じなければ現実に見ていることを理解できない。良範は唸り声をあげるしかなかった。

参 至尊

時は戻る。

豊成、良範、小黒の三名は揃って都からの使いを迎えていた。本来ならば彼らの親たちがその役目を負うべきところだが、都からの要求は若い世代である彼らを指名したものであった。その内容は討伐。相手はもちろん例の鬼達だ。

「……以上、すめみまのみことの御意志なれば……」

都からの使いが書を読み述べるのを平伏して聞きながら、彼らは三者三様の思いを浮かべていた。豊成は、手勢だけでは不足するだろう兵士を領内から引き入れるための段取りを。良範は都からの援軍があるのかどうかを難解で遠回しな使者の言葉から推し量っていた。小黒は、父に加護の祈祷を依頼することが可能かどうかを考えていた。

「……榎本豊成、宇井良範、穂積小黒、三名に申し付ける」

使いの言葉が終わるときには、三人とも指揮官の顔になっていた。

形式的な儀礼が済んで、長居することもなく足早に使者一行が去る。それを見ながら、抑えていた悪態を吐き捨てるように、

「つまり、都から将軍を派遣してやってもいいが、その前におまえらで討伐してみせれば至尊の覚えもめでたいだろう、と、そういうことだな。見ろよあの速足。鬼どもの影に怯えてびくびくしやがって」

良範が言うと、

「まあ、千の鬼たちを俺たちのみで討伐できるとは思っていないんだろうな。華々しく散る前にせめて鬼達の勢いを減らしておけと、そしたら将軍様が掃討する、と。そういう感じだな、あれは」

小黒が続ける。

「いずれにせよ、我々の実力を見定める良い機会ではないか?」

豊成の言葉に他の二人は目を丸くするが、諦めたかのように何も言わない。小黒の属する穂積家はこの地の神社の禰宜を継承する一家であり勢力的にも大きい。生年で言えば、良範が最も年上だ。性格面の強さとか単純な力で言っても最も強いだろう。しかし三人が集まると、自然と豊成が中心になる。その独特の雰囲気が他の二人を従わせてしまう。本人に傲岸な態度や押しつけがましい言動はない。生まれつきの風格、とでも言うべきものが彼には備わっていた。

「そうだな。熊野の実力を都にまで轟かせてやるか」

良範らしくない前向きな言葉。即座に小黒がからかう。そんな二人を眩しそうに見つめながら、豊成は笑った。

四 烏

数日後。熊野三党の若衆三名は、集まった兵士たちを見つめていた。

三人がかき集めた純粋な手勢は五百ほどであった。帝からの命とはいえ、郡司もしくは軍毅としての働きではなく、書類には残らない特別な依頼であり、熊野にいる兵士をすべて動員できるわけではなかった。

そこに二百ほどの男たちが加わった。正規の兵士ではない。鬼たちの襲撃に家族を奪われた者、腕自慢の旅人たち、金で武技を示す男たち。そしてあの猟師もいた。彼は腕利きの猟師たち十名ほどを連れてきた。ある意味ではこれらの者たちのほうが頼れる戦力だと言えるかもしれない。彼らは自主的に参加した者を除いて、ほとんどが豊成の呼びかけに応えて馳せ参じた男たちであった。

「おまえの人脈はどうなってるんだ、毎日のように庭で剣を振っているだけなのに、これだけ色んな奴らを集めてきて」

棘のある良範の言葉に、

「昔から、うちは色々とつきあいがあるのさ」

豊成は真顔で答える。

「この人数なら、あとは士気と戦術次第だろう」

「士気なあ。向こうには妖術を使うのがいるんだぞ。少なくとも一人は。目の前で竜巻起こされたら、それだけで臆病風吹かせる奴だって……」

「そのへんは、うちに任せておけよ。父殿が加護を祈祷してくださるそうだ。特に良範、おまえには特別にな」

小黒が言う。

「俺?俺にか?豊成ではなく?」

良範が怪訝そうに言う。この数百名を率いるのは豊成になる。それはいわば暗黙の了解で、長老たちも理解しているはずだった。

「そうなんだ。理由はわからないけどな」

困惑して、豊成を見やる良範。しかし見つめられた当人は、我関せずとでもいうように呟く。

「今日は烏も軽い。良い兆候だ」

豊成は先端両刃の刀を振るった。伝家の刀は本来無銘無名であったが、豊成は「烏」と名付けていた。素早く振れば、大烏が翼をはためかせるような音が鳴る。それを聞いた良範が目を細めて何かを言いかけたとき、急に空が暗くなった。

青かった空を覆うように、不気味な黒雲がみるみる広がってゆく。鬼たちの襲撃を経験している者達にとっては悪夢の再来かのように。そして此度の怪異はこれだけではなかった。

(そのような陣容で、我々に挑もうというのか、弱き者どもよ。見るからに、寄せ集めの烏合ではないか)

その、自信に満ち、ある種の威厳すら感じさせる声は、聞きとった者達の鼓膜を震わせていなかった。直接、届く。集った男たちの頭の中に直接響いていた。

(人から離れ、人を超えた我々に、数の利すらない無力な貴様らが、どのようにして立ち向かうというのだ?)

「敵の大将か……こんな術まで使うのか。まずいな、兵たちが……」

小黒が呟く。

熊野の兵たちの間に、明らかな動揺が生じていた。両耳を強く押さえながらぶるぶると震える者、自己流のまじないか何かを呟く者、逃げ時を測るように血走った眼で周囲を見渡す者まで……しかし彼らの中から、冷静ではあるが力強い声が上がった。

「人を超えた?果たしてそうかな?」

声の主は豊成だった。

「あいつ、いつの間にあんなところに」

先程まで隣にいたはずの男がいまや兵たちに混ざっているのを、驚いた顔で見る良範。

「この中には、一対一の闘いで貴様らに勝った男もいるぞ。人を超えたモノとやらにな」

豊成が視線を送ると、あの猟師が力強く肯いた。兵たちの中から小さく、しかし確かな歓声が上がる。しかしそれも束の間だった。嘲るような声が再び男たちの頭の中に響いた。

(然り。見たぞ見たぞ、確かにな。しかしその男自身が誰よりもわかっているはずだぞ。どうだ?卑怯な罠に頼らなければ、傷一つ与えられず切り刻まれていたのは明白。どうだどうだ?)

猟師の表情が曇るより早く、豊成の声。

「姿も見せず邪な術を用いて我らを誑かさんとする貴様が言うことか!」

皆が、豊成を見た。

(面白い……貴様が熊野の大将か?にしては、些か若すぎるようだが?)

「さあな。しかし貴様に将の器がないことはわかるぞ、そうさな、……貴様は欺く者、唆す者、そう、貴様はよくて策士よ。己の策に溺れつつある、……な」

しばらく静寂があった。集まった男たちは再び戦う者の顔になっていた。それぞれの得物に手をかけ、周囲を見渡す目には、不安の淀みではなく次にどんな事が起きても対処するのだという意思の煌めきがある。

(わかった……この手は失敗したようだな。認めよう。貴様は良き将だな。見事に兵どもを鼓舞した。確かに、将としての器は貴様のほうが上のようだ……しかしこれで終わりではない。策士は策士らしく、横道でやらせてもらうぞ)

声が消えると同時に、暗雲の中に龍が走った……ように見えた。そして、大気を切り裂き、雷光が落ちた。兵士たちの只中に。直撃こそしなかったが、雷は地を伝わり、数名が悲鳴を上げて倒れた。二名ほどが気絶し、周囲の男たちが駆け寄ろうとする。

「集まるな、散れ! 散るんだ!」

小黒が叫ぶ。頷いて、兵たちは散開しようとする。そこに二度目の落雷。

「畜生!」

良範が叫ぶ。今度は不運な兵士が直撃を受け、手足を痙攣させながら徐々に意識を失っていく。

「おい、何やってる、駄目だ、駄目だ、豊成!」

小黒の声に良範が視線を翻すと、豊成はひとり愛刀を天に向けて突き上げるようにしていた。目を閉じて、穏やかな顔で。

(ほう。自ら的になるか。愚かな。仲間の命を救うためにか?……いいだろう)

再び、黒雲の中を稲光が奔る。

「死にてえのかよ、豊成!」

小黒の声を遠くに聞きながら、良範は走り出していた。そこから、全てがゆっくりと進んだ。全速力で走っているのに、まるで一歩一歩地面をしっかり踏みしめて歩いているようだった。草や小枝、小石……ひとつひとつ、自分の足の下にあるものが折れたり潰れたり飛び散ったりするのを感じながら、良範は進んでいく。

小黒がゆるゆると膝を折って、地面につく。蒼白な顔を両手で覆う。その動きも遅い。豊成の瞳がゆっくり開いて、天を見上げた。呼応するように、雷光が彼に近づいてゆく。

絶望的なまでに遠い。そして遅い。畜生、俺は、俺じゃ、間に合わないのか?口の中に血の味がする。自ら噛み締めた唇から、血の味がする。雷が、どんどん豊成に近づいてゆく。全てがゆっくり進んでいるのに、雷光だけが鋭く速い。そして、

そして、甲高い鳴き声がした。

時の流れが戻った。良範の巨体が豊成にぶつかって、包み込むようにして倒れる。押し倒されながら、豊成はまだ視線を天に向けたままだ。何を見てやがるんだ、このままじゃ雷に……雷に、いや、どうなったんだ?

豊成が見ているものを、いまや皆が見つめていた。それは、鳥だった。大きな。そして三つ足の。雷は、翅を開いて空を旋回するその鳥によって、防がれていた。大きな、黒い鳥に。そう、巨大な烏に。

(邪魔をするか!)

頭の中に響く怒声とともに、再び、雷光が落ちる。今までのものより圧倒的に大きな雷鳴。そして烏が鳴く声。雷は、烏の身体に当たる直前で、掻き消された。

(ヒトの……人間の、味方をするというのか、ヤタのカラスよ)

それは、初めての声色だった。焦り、疲労、生々しい怒り。それらが混ざり合った、昏く弱々しい声色だった。そして、妖しの声は消え失せた。同時に、空を覆っていた黒雲が、文字通り雲散霧消した。すると、雲ひとつない奇跡のような青空がそこに広がっていた。

大烏は再び一鳴きすると、照り輝く太陽に向かってほぼ垂直に飛び上がった。そして一瞬、ばさっとその翼を広げた。影が太陽を隠し、黒き瑞鳥の輪郭をなぞるように金色の光が地に降り注いだ。

「ヤタ……八咫烏……導きの、太陽の、……神使、熊野の守護……」

唸るように呟く小黒の瞳には涙が溢れていた。見開かれたままの眼球からぼろぼろと落ちる涙。その雫が一粒、地に落ち、土に沈み込むように消えると、烏もまた幻のように消えていた。

驚愕の連続から解放された兵士たちは、爆発的な歓声をあげた。良範は地に倒れ空を見上げたまま、豊成に問いかけた。

「あれもか?あれも、……おまえの家の付き合いってやつなのか?」

「答える前に、身体をどかしてくれないか、足が折れそうだ……」

苦笑しながら豊成が言う。

「すまん」

「いや、礼を言う。身を挺して、守ろうとしてくれたのだな。おまえは良い奴だ。俺は好きだ」

良範の顔が、みるみる赤くなる。

「あれは……こいつが呼んでくれた」

豊成は、刀の柄に手をかけた。そして、再び切っ先を天に向けた。陽光が反射して煌めく。小黒が駆け寄ってくる。兵たちも。何が起こったのか、確かに理解している者はいなかった。しかし絶望的な状況を、自分たちの将が覆した。その事実が、彼らを勝利へと大きく前進させていた。この瞬間、豊成は真に大将となった。

幕間

腕の中で眠る女の吐息が、髪を揺らす。距離が近づくほどに、関係が深まるほどに、わからなくなる。一度は敵として戦ったこともある男に、こうして無防備に身を預け運命まで託す強さ。温かく小さな身体を通して感じる穏やかな鼓動の、切なくなるような儚さ。この二つが、どうすれば一つの生に同居するのか。

暗い穴蔵の中に、珍しく風が吹いた。冷たく、清々しく。身と心にまとわりつく塵芥が優しく払われてゆく。

時を待つのは……もう沢山だ。

生まれた土地を追われ、流れ着いたこの場所で、新しい言葉と新しい生き方の両方を教えてくれた女、全てを失って自暴自棄になっていた自分を頼りにしてくれる仲間たち。

守るのだ。この「クニ」を守るために、闘わなければならないのだ。生まれ落ちてからずっと、全てを奪わんとする運命に弄ばれてきた。耐えるのは、もう沢山だ。

抗え。闘え。奪うのだ。取り戻せ。変えるのだ、変わるのだ。居らぬモノ達の王として。

薄闇の中、何かが弾けたように、男の身体が震えた。

伍 喊声

五日。諸々の準備にかけた日数だ。本来なら備えだけで一月は必要な作戦だが、その時間は与えられていなかった。鬼たちはいまや断崖絶壁の岩場に砦を構えて近隣を襲撃しており、その被害は増大していた。

急遽召集された兵達に乱れ無き統率を求めるのは難しいことと、嵐や雷を操る敵の術に対応するため、豊成は散兵戦術を提案した。全体として動く最低限の取り決めと鍛錬を足早に終え、いざとなれば十名の集団「火」単位で自主的に動けるよう、兵達の意識を変えた。


良範は小黒の父、熊野速玉大社の禰宜、穂積財麿により、加護の祈祷を授かった。それは秘儀であり、二人で密室に篭り、わずかな水のみを口にして一日中、特別な祝詞を唱えるというものだった。しかしその過酷さにも関わらず、一日が過ぎ、部屋から出てくると、良範はそれまでよりも活気付いた表情で、体格も一回り大きくなったように見えた。

小黒は先発隊を率いて鬼たちの動向を探っていた。そして襲撃を受けた漁村の生存者たちから作戦への協力者を募った。主たる戦場は岸辺にある鬼たちの砦になるだろうが、海賊としても猛威をふるう鬼たちとの争いである以上、海戦の準備もしなければならなかった。復讐心に燃え腕っぷしの強い漁師たちは頼もしい味方となるだろう。

そして。

そして、その日が来た。鬼たちは気紛れに掠奪を繰返しては砦に戻り、夜な夜な宴会を開き朝方まで大酒を飲んでは昼ごろまで眠るという自堕落を繰り返していて、自然の要害を恃みにしているのか、ろくに見張りも立てていなかった。

熊野灘の荒波が落ち着くのを待って、五百の正規兵を豊成が率い、正面から砦に挑む。二百の志願兵は最初から散兵として良範とともに自在に働く。主に奇襲や伏兵を担当する。良範は頃合を見計らって、砦の正門とも言える岩戸を目指す。鬼の将はその最奥にいる。海には五十の船団。小黒が指揮する。船には漁師たちと、弓を得意とする者たちが乗り込んでいる。沖合の二木島を経由して、主に船上から火矢を用いて攻撃する算段であった。

「おい、チビの大将さんよ、顔色が悪いが大丈夫か?」

漁師の一人が、真っ青な顔に脂汗を滴らしている小黒をからかう。

「うる……、おえっ」

抗議の言葉とともに込み上げてきたものを船縁から吐き出す小黒の姿に、漁師たちの顔がほころぶ。

「たった五十の船で、千とやり合わなきゃならねえんだ、しっかりしてくれよ」

「そうだよ大将さんよ。舟捌きなら、鬼どもなんかにゃ負けはしねえ。荒事に怯むような腰抜けも一人もいねえ。だがよ、これは戦なんだ、あんたがしっかりしてくれねえことにはよ」

「あーあー、わかったわかった、今、臓物ごと吐き出したからもうこれで……、うっぷ」

言い終える前に再び顔を乗り出した小黒に、漁師たちはついに耐え切れず、爆笑の波が船を揺らした。

船には、小黒と漁師たちの他に船に慣れのある射手たちも乗っている。相手の船は千……とはいえ、陸の奇襲が成功すれば実際に乗船できる鬼は少ない。海岸の砦から距離を取って、弓矢で味方を支援しつつ、敵の船を燃やしていくのが小黒隊の作戦内容だった。


良範は、小黒の父に教わった文言を再度、頭の中で反芻した。澱みなく、すらすらと。しかし口には出せない。音声として発したが最後、一度きりの加護、使い所は定められている。

良範が率いるのは、もともと豊成の縁故で集まった者達が大半だ。業師、力自慢、荒くれ者、武技に優れた者など、腕は立つがそれぞれが一癖も二癖もある連中だ。だから良範は、この日を迎えるまでに、各々の得意分野で一人一人と勝負をした。勝ちもし、負けもした。しかし互いの実力を見定めあって、実力主義同士の信頼関係は充分に醸成されていた。

(豊成のようにはいかないが、俺は俺に出来ることをした。あとは、ままよ)

「それでは、我々は先行します」

誰よりも先に鬼退治を成したあの猟師が、仲間たちを引き連れて、良範に報告に来た。彼らは俊敏さと狩りの知識を活かすために断崖絶壁の上部にある林に潜むことになっている。

「頼らせてもらう」

男たちはうなづくと、足早に去っていった。良範は、残りの兵らに声をかける。

「よおし、各人は定められた隊を組み、或いは個々にて、それぞれの判断で、好き放題、暴れてくれい!」

唸り声、雄叫び、儀式じみた仕草、冷笑、緊張感に満ちた目配せ、目を閉じる者、自らの身体を叩く者、それぞれのやり方で、強者たちは臨戦態勢になった。

そんな集団の一角に、やや色の違う一団がいる。鬼たちに家族を殺され、復讐のために参加した志願者たちだ。彼らは争いに慣れているわけでもなく、特別な技術を持つわけでもない。燻る憎悪のみが死地にあって彼らを奮わせている。良範は、彼らを見て深く息を吸った。

「この中には、仇打ちのために参集した者たちもいるだろう。思いっきり、怒りをぶつけてやれ、遠慮はいらん」

煽られた復讐心が鈍い光となって、彼らの瞳に宿る。

「だが、奴らを殺すことが報いではない。戦に勝ち、みな無事に帰って、弔った者たちの墓前で報告してやるのが、我々の復讐だ。我々は鬼どもとは違う。怒りを扱え。扱われるな。……奴らのようになるな」

一つ一つ、突き刺さってくる視線。自らの言葉が試されているのを感じながら、良範はしばらく息を止めた。


豊成は、浄めの水浴びを済ませると、汗衫一枚の姿で鼻から深く息を吸い込んだ。風雨に刻まれた奇岩、まばらに生えた草木、緩やかに波打つ潮や渦……それらが発する混然とした香を感じ、故郷・熊野を守るという使命感のようなものが……湧き上がらない。全く。

(つくづく俺は)

溜息を吐いて、豊成は身拵えを整えてゆく。心中めらめらと、燃え盛るものはある。しかしそれはクニに対する愛だとか誇りだとかではない。自分がどの程度の人間なのか。そして……

陣幕を抜け、つつと歩んで、顔を上げる。

凄まじい喊声。己が大将を今か今かと待ち構えていた兵達の顔を一つ一つ見回しながら、豊成は抜刀し、自分でも訳の分からぬ叫びを上げた。呼応するように、兵達の喊声が一際、大きくなった。

駆け出した。兵達が叫び続くのを背に感じながら。

(つくづく、……俺は)

幕間

夢を、見ていた。それがどんな夢だったか、目覚めた時には思い出せなくなっていた。ただ、安らかで、穏やかで、心地よかった。ずっとそこに居たかった。

夢を破ったのは、何処か近くで発せられた叫び声だった。多くの叫びが一つとなって、こちらに近づきながら響いてくる。

それが、いつか来ることはわかっていた。平穏は、必ず壊される。いつも、そうだった。

(いつも、いつも)

激しい怒りが、意識を痺れさせる。あのとき……国を追い出されたあのとき、自分を永遠に変えたあのとき、あのとき感じたものと同じ激情。

立ち上がろうとしたとき、柔らかい何かが腕に触れた。指だ。腕を掴んでいる。その指は、力強く、そして頑なだった。

「離してくれ」

「駄目」

振り払うことはできる。しかし、そうしたくなかった。この触れ合いを、失いたくなかった。自分は変わってしまったが、まだ留まってもいる。留めているのは、この指だ。この指の、主だ。失ってしまったら、もう戻れないだろう。

「貴方が出るのは、最後」

その目には決意が篭っていた。起こっていることから逃避しているのではなく、道理を説いている。激情が揺らぐ。

「わかった」

指を掴んだ。握り返してくる。心地よかった。ずっとこうしていたかった。

「……わかってるさ」

2022/04/22

六 武人

鬼達の砦から少し離れた山林。朝陽の赤みを反射しながら、二本の剣が舞う。通常のものより、やや細身の剣が、空を斬る。交わる。再び、剣が踊る。その合間合間に、短く太い呼気が吐き出される。二つの剣は止まらず、動き続ける。滑らかに操る男は軽装で、肌が広く露出している。伸びるに任せたまとまりのない長髪が、動きに合わせて揺れ動く。

一瞬も留まることなく、連続して繰り出される鋭い斬撃。高速の突き。横薙ぎ。緩急のある多様な攻撃。あらゆる角度、高さから、致命的な一撃が次々と放たれる。

男と二本の剣が生み出す死の舞を、多くの目が凝視している。大木の枝にとまった小鳥たち。その根に半身を隠した鼠。やや距離を空けて雄鹿が首を垂れながら。男が発する気合いに呼応するように、珍しい白猿が飛び跳ねながら声をあげている。狼の群れは互いの顔を見合わせて、男を値踏みするかの如く……。

観客達の期待に応えるように、剣はより速く、より軽やかに、そしてより危険な動きを見せるようになっていく。その絶頂が近づいたとき、男と剣と獣たちの奇妙な一体感を打ち壊す雑音が遠くに聞こえ、それは次第に大きく轟いて、明らかに近づいてきた。獣たちはそれぞれの安全に向かって散り、ひとり残された男は細くぎらぎら輝く瞳を音のほうに向けた。

ざんばらの髪を手早く結うと、男は抜いたままの双剣をかつぐようにして走り出した。

2022/04/24

走っても、男の動きは滑らかだった。木や岩といった障害物を「よける」というよりは「まとわりつく」ような動き。流水が自在に姿を変えながら勢いを弱めない、そんな風に。

木の影や茂みから、小柄で身軽そうな鬼たちが複数、飛び出してきた。双剣を担ぐ男の顔をそれぞれ覗き込むと、半数が男の前を、半数が後ろを守るように、斜めに並んで併走し始めた。

人間達の声が近づく。男が減速すると、鬼達もそれに倣う。合図もないのに、ほぼ同時だった。一斉に得物を構え、そしてそこからは慎重そうに、静かに進み始めた。


海にも、豊成達の雄叫びは届いていた。山林のあちこちに、目印の篝火がちらほらと見える。

「よし!」

小黒が手を挙げると、楕円の陣形を組んだ五十の船団が一斉に進み始める。射手達は既に火矢の準備を終えている。岸に並ぶ無数の敵船に矢が届く距離まで近づけば、いよいよ攻撃開始だ。

つい先程まで冗談を言い合っていた漁師たちも、操船に集中しながら、みな真剣な面持ちで砦の方を見ている。「チビの大将」の様子が一変したのを察し、慣れ親しんだ海が未知の戦場に変わったことを強く意識していた。

2022/04/26


豊成の本隊が突撃した後、その進路を迂回するようにして、良範の遊撃隊が個々別々に進軍している。良範はなるべく開けた場所を選ぶようにして進んでいた。木々の間隔が狭い場所では、己の体を持て余す。鬼達の奇襲を警戒する意味もある。恐れてはいないが、なるべく早く砦に辿り着くことが肝要だ。

山林のあちこちで、小規模な戦闘が始まる。潜んでいた鬼達と、遊撃隊との小競り合い。疼く心を落ち着かせて、それらの争いを避けるようにして進む。

良範の進みに合わせるようにして、一人の剣士がすぐ前を歩いていた。剣技に関しては、隊の中でも一二を争う男だ。豊成の知人で、ともに剣を学んだ仲らしい。彼は、護衛役を買って出ていた。

男が、不意に立ち止まった。後続の良範を手で制止させる。すると、不満そうな声をあげながら、鬼が二匹、前方の木陰から姿を現した。二匹とも半裸で、粗末な槍を持っている。長い牙が、唇から飛び出している。耳が、顎くらいまで垂れている。右利き、左利きの違いはあるが、それ以外は非常によく似ている。

「双子の鬼……」
「任せてくれ」

剣士の動きは速かった。言い終えるより早く、短刀が三本、左利きの鬼の手首から肘あたりにかけて命中していた。苦痛に槍を落とす、鬼。

右利きの鬼が怯むことなく突っかけてくるのを剣士は見てとるや、低い体勢で前に出て、抜き打ちに斬り払う。

槍の穂先が、宙を舞う。剣士に斬り落とされて。それが一本の木に突き刺さったとき、赤黒い液体が飛び散った。剣士は返り血を避けるように、するすると数歩後退する。穂先とほぼ同時に、鬼の首も飛んでいた。どさっ、という音がして、その首が地を転がる。

「ふむ。初めてだったが、斬れるものだな。鬼であっても。ならば……」

左利きの鬼は槍を取るのも忘れ、怒りに満ちた眼差しで剣士を見ていた。

「得物を取らんのか?」

唸り声で応えて、鬼が飛びかかる。剣士はふっ、と息を吐いて、構えた。

2022/04/27


崖下から放たれた鬨の声に、仲間たちが目配せをする。どうやら、第一陣の奇襲は成功したようだ。しかし……

猟師は自分を襲ったあの小鬼のことを思い出していた。あのような敵が何百、何千といるのだとしたら……しかも奴らの将は天候を操るような凄まじい妖力の使い手だ。熊野三党の将兵がいかに精強であっても、苦戦は免れないだろう。

(いかん、集中しろ。役割。己の、役割に)

身寄りが少ないこともあって、技術を身につけてから今まで、ほとんど一人で狩りをしてきた。手負いの狼や巨大な猪のような危険な獲物を狙うとき以外は、仲間を恃むこともなかった。人嫌いではないが、一人でいるほうが冴えていられた。

行動をともにする男たちは旧知の仲であり、彼らの腕は間違いなく頼りになる。しかし、慣れない。集中できない。……命を取る、取られる、そういった瞬間瞬間に、何よりも大切なのは、軽く、何物にも囚われない発想と、それがもたらす心の翼であり、それによって飛び立った先に、いつも光明があった。

「なあ、……ここで散らばって、道を見張る。それで良かったな?」

確認を入れてくる仲間に無言で頷き、彼らが思い思いに潜伏場所を定めていく様を、見つめる。若者が一人、残った。村で一番の俊足。彼は伝令役だ。

「なら、俺はいったん、良範様のとこへひとっ走りしてくるよ」
「頼む。気をつけろよ」
「駆けっこなら、鬼にだって負けねえさ」
「だろうな。よし、行け」

若者を見送ると、守るべき道を見る。鬼たちの砦がある岸壁とそれを取り囲む山林から、まとまった数で抜け出ようとすれば、海に飛び込むか、もしくはこの道を通るしかない。

敗走してくるのがどちらだったとしても、ここに備えておく。……そうだ。備えだ。仲間達から離れたことで、冴え始めた発想。心の翼が、大きく開いた。

2022/04/28


血飛沫とともに、見た目よりもずっと硬く、強い腕が回転しながら空を飛ぶ。怒りが音の波となって身体にぶつかってくる。斬り落とされた腕を自ら蹴って、突進し、額に生えた一本角で突き殺そうとしてくる青白い鬼。その攻撃を皮一枚でかわし、すれ違い様に頸を刎ねる。

鬼達は強靭で、手足を斬り落とされたくらいでは怯みすらしない。しかし心の臓を貫くか、首を切り落とせば動きを止める。

豊成は、愛刀に滴る鬼の血を振り払った。周囲を見渡して兵達の戦いぶりを見る。敵に対しては複数であたるようにと命じておいた。それができないときは木や岩を利用して守りに徹し、仲間の助けを待てと。今のところ、その戦術は奏功しているようだった。

槍を持つものが鬼を刺し、動きを止める。そこを複数で斬りつけ、打ちのめす。単純だが、連携を取らずに突進してくる鬼には有効だった。

鬼達は、明らかに守り慣れていない。攻撃には長けているが、防御に関しては素人……というよりも、相手の攻撃に対して身を守るという意識がないようだった。

(鬼とはみな、死にたがりか……)

「みな、出せる限りの声を出せ、敵という敵を引きつけ、我らは転進する!」

言い終えると自ら声を張り、走り出す。その後に兵達が、そして鬼達も。何か、走ってばかりだな、と思うや否や、目の前に飛び出してきた鬼の胸を突き刺した。


岸との距離は充分に縮めた。射手達の準備も万端だ。問題は、風だった。逆風が、強く吹き下ろしてくる。漁師たちの見立てでは、海からの風が砦のある岸壁に当たって、はね返り、吹き下ろしているのだという。この状態では矢の届く範囲がかなり狭められてしまう。

更に距離を縮めれば、問題は解決できるかもしれない。しかし、それには危険も伴う。鬼達からの反撃があった場合、逃げきれなくなる可能性が高くなる。

小黒は砦のほうを見上げた。どうやら豊成の本隊が敵の主力を誘き寄せたようだ。篝火の進む方向が、変わった。

(向こうは、順調か……)

そう思ったまさにその時だった。船内のやや離れた場所から、漁師の一人が野太い声で告げてきた。

「大将、こっちに来てくれ!」

応じて近づいた小黒の目に、奇妙な姿が映った。童子。真っ黒な髪、真っ黒な目。着ているものも黒づくめ。その丸い目で、小黒をじっと見つめてくる。漁師の太い指に首を押さえられながらも、抵抗する様子もない。

「童が、何故? ……誰かの子か?」

漁師たちはみな首を横に振る。

「こんな童は見たこともねえや、大将、どうする?不吉だし、海に捨てるか?」

漁師の言葉は戯れではない。彼らは豪気で大胆だが、同時に猜疑的で、験担ぎを重んじる。船に見知らぬ者が乗っていたら、それは不吉な現れだ。小黒は彼らの雰囲気を感じ、暫し考えた。しかし、どのように考えたところで、人としてやるべきでないことはやるべきではない、と思えた。

「いや……いや、それは駄目だ」
「なら、どうする?」
「どうもしない、たかが童だ。放っておけ」
「しかしよ、もしや、こいつが鬼の仲間だってことも……」

漁師達が頷き合う。射手たちの一部は緊張した面持ちで小黒を見ている。そして童子は、……微かに笑っている。

(何故、笑ってやがるんだ?漁師どもが言うように、これは、何かの謀りか?鬼達の?)

「またとない」

童子が、そう言った。……ように聞こえた。

「なんだって?」
「またとない、と言ったよ、ほら」

言いながら、細くて頼りない指を二本、中空に彷徨わせる。そこにいる誰もが、その指先を見つめた。紫色の小さな花びらを摘んでいる。二つの指が離れると、花びらが吹き下ろす逆風を受けて落下し、船底に落ちる直前、ふわりと舞い上がり、そしてそのまま船の外に勢いよく飛び出した。……砦の方へと。

「風だ!風向きが、変わったぞ!」

射手の一人が、うわずった声で叫んだ。

2022/05/01

「よし、弓隊、火矢の用意!漕ぎ手は船を散開しつつ、岸との距離を維持!近づきすぎるな!」

小黒の指示に慌ただしく動き始めた大人達の様子を、誰よりも落ち着いた態度で見守る黒づくめの童子。問い質したいことは幾つもあるが、今その時間はなかった。

「童、隅っこで大人しくしてろよ、海に落ちても助けてやれないからな!」

その言葉が届いたかどうか確認する暇もなく、小黒は射手たちの様子を確認した。問題はなかった。隊の練度は高く、揺れる船をものともせず、火矢の準備はすぐさま整った。

「よし、準備出来次第、各自、放て!」

号令がかかると、ほとんど一斉に無数の矢が飛ぶ。まだ薄明るい空に、炎の煌めきが舞う様は、知らず知らず船上の者たちを鼓舞し、昂らせる。

火矢は次々命中し、幾つもの敵船から火が上がる。すると、船の中で眠っていたのだろう者どもが、悲鳴をあげながら跳ね起き、中には慌てて海や浜に落ちる者もいる。

「ざまあみろ!」

漁師の一人が叫ぶ。

「あんな糞船、全部燃やしちまってくれ!」

漁師達が昂ぶる中、射手達は冷静だった。鏑に油紙を詰め、着火する。弓につがえ、狙って放つ。一連の動作を、無駄なく繰り返す。

火矢が命中した船は、風に煽られて見る見るうちに燃え上がり、そして沈み始めていた。海からの襲撃に気づいた者たちが、砦のほうからばらばらと集まってきてはいるが、それはまだ少数だ。

敵のうち、最初から船にいて幸運にも一矢を受けなかった者は、素早く船を漕ぎ出し、向かってくる。敵ながら、慣れたものだ。しかし風下ゆえ、敵の矢が届く前にこちらの矢が当たる。優位は絶対的だった。

「漕ぎ手は敵船との距離を保て!射手、こちらに向かう船をまず先に討て!」

緒戦の優位は、それに胡座していれば、そのうち数的不利に覆される。油断することなく、敵の反攻が本格化する前に、出来るだけ多くの損害を与えなければ……

冷静に状況判断しながらも、小黒には、向かってくる敵達の姿形に違和感があった。圧倒的に不利な戦況で、奴らは非常に勇猛だ。船を捨てて逃げることなく、持ち船を沈められても得物を口に咥えて、死に物狂いに泳いで向かってくる。

しかしその者達の姿は、まごうかたなき「人」の形をしている。角も牙もないし、体格も際立っていない。また、何かを喚いたり叫んだりしてはいるが、妖術のようなものを使ってくる様子はない。

海にいる敵は鬼だけではなく悪辣な海賊との混合だと聞いてはいた。しかし実際のところ、いまこの戦場に鬼はいない。少なくともまだ、見当たらない。

(いや、判断を早まるな。見た目では区別できない鬼がいるのかもしれないぞ)

……小黒は自戒したが、違和感は消えなかった。

2022/05/02



良範は、目の前にいる男の異様さに戸惑っていた。見た目は、人。中年の男。一本に結えられた長髪。中肉中背。左半身を露わにした軽装。細身の剣を二本、肩に担いでいる。

双眸が熱く輝き、薄暗い林の中、まるで陽炎のようにゆらめいている。構えらしい構えを取らずに立っているが、全く隙がない。男の全身はしっかり鍛えられているが、身体に重さを感じない。

一目で、只者ではないことがわかる。しかし「異様」とはそのことではない。男は、鬼を従えている。その数、七。

「貴様も鬼なのか?」

良範の声に男は首をすくめる。

「どう呼ばれるかには、こだわらぬ。それよりお前、強そうだな。ああ、強そうだ。その大きさ、そういう人間は、そう、はじめて斬るぞ」

(見る……でなく、斬る……か)

その挑発的な言葉は、心理的な駆け引きでないのだろう。この男は、戦う前から自分の勝利を確信しているのだ。

男が一歩、近づく。配下の鬼達はその様子を黙って見つめている。脂汗が、良範の頬を伝う。本能的に後退りしそうになるのを、意志の力で抑え込む。圧されて退がれば、均衡が崩れる。その隙を、まず間違いなく、突かれる。

良範とて、臆病ではない。むざむざ負けるつもりもない。しかし戦の中で与えられた役割がある。豊成の本隊はどうやら順調に働いている。ここで時を奪われては、全体に滞りが生じてしまう。

「……待たせたな。もう片方に、少しばかり手間取った」

護衛役の剣士が、木陰から姿を現す。爪でやられたのか、頬に浅く、三本の長傷が見える。

「こいつは……」

剣士は驚嘆したような面持ちで膠着した。その目は良範の前に立つ男を見据えている。

「これはこれは……また強そうなのが来たか。そうだ、強そうだぞ。ん?……ひだりみぎの双子を斬ったのか。一人で。やるなあ。やるものだなあ……斬るのが残念だ」

再び、勝利の予告。

「良範殿、すまぬ」

剣士の瞳が輝いている。自分を斬ると宣告した男の双眸に呼応するように。

「……自分から申し出ておいて、申し訳ない。だが、護衛をやれるのはここまでのようだ。この相手には持てる技の全てを出さないと勝てない。先に行ってくれ。……武を追う者の性が出た」

双剣の男から目を離さず、剣士は良範に伝える。

「わかった。任せた」

失った分の時を取り戻そうと駆け出す良範。鬼達が、後を追おうと動く。それを手で制すと、男は剣士に向かって軽やかに跳躍した。

2022/05/08


多対一、防御優先を徹底しながらのろのろと後退した先は、開けた草地だ。突如として豊成の掛け声。草地へと駆け出す。その後を追うように全速力に走り込む兵達。急に速度をあげた人間達を見て追撃せんとする鬼達。草地に飛び込んだ途端、左右から伏兵が挟撃の形、新たな号令で転進した兵達と三方向から攻められ、鬼の隊列は崩壊、多くが討ち取られ、それ以外も木々の合間に逃げ込んだ。

(これで、時間が出来た)

負傷者の手当を命じながら、豊成は双方の死傷者の数を計算していた。兵達は手堅く善戦しているが、個々の能力差もあって、思っていたよりも敵の数を減らせていない。味方の死者は今のところ少ないが、負傷者は相当いる。奇襲も伏兵も成功したから兵達の士気は高い。しかし相手への損害が僅少なことに気付いたり、負傷者が目に見えて増えてゆけば、脆く崩れるだろう。

(あの妖術使いも、まだ姿を見せていない)

与えた損害はともかく、山林に潜んでいた鬼達、戦闘の音を聞きつけて砦から飛びだしてきた鬼達、それらの大多数を砦から引き離すことには成功した。しかしあの将も含め、砦の残存勢力が未知数なことは気にかかる。

損害に応じて「火」の再編成を済ませると、豊成は直属の部下たちに指示を与え、単身、砦の方に向かった。

(良範、踏ん張っていてくれ)

2022/05/09


道すがら出会った良範麾下の散兵たちは、山林のあちこちで思い思いに戦果をあげていた。豊成にとって顔見知りも多く、無事に再会するたびに心が強くなる。

鬼達は確かに手強いが、その強さは基本的には身体能力に頼ったもので、闘争の技術や駆け引きに長けた精鋭たちにとっては、与し得ない相手ではなかった。

同時に、個別小数で行動していた鬼達が急速に組織化されたこと、率いる者の特殊な能力、明らかになっていない結集の目的など、不安要素も多かった。人の数倍の膂力や敏捷性を誇る鬼達が、もし将によってまとめあげられ、戦術を習得したら……。

散兵達に聞き取った断片的な情報から良範の足取りを追う。砦に先回りすることも考えたが、いずれにせよ、そこで良範が必要になる。ならば先に合流して……。

(あれは……)

見覚えのある男が、大木に身を預けるようにして立っていた。剣の基礎を学んでいたとき、ともに学んだ同輩、熊野屈指の剣士。良範の護衛を依頼し、快く引き受けてくれた……

血まみれの顔が、ゆっくりと向いた。そこには幾つかの感情が複雑に絡んでまとまりなく浮かんでいた。

近づく豊成に何かを言いかけて、言葉は出ず、咳と、血の塊が吐き出された。彼は最後の力を振り絞るようにして、両手を振り回した。しかし、すぐに力を失って落ちる。すると、今度は右手だけを突き出すようにして豊成に示した。

「何か、伝えたいんだな?」

言いながら、近づく。近づいてはじめて、そこに幾つか別の姿があることに気づく。男。複数の鬼達。豊成はそれらを静かに見た。自分の間近で命の灯火が一つ、消え去ったのを感じ取りながら。熱く激る何かが、頭の中で暴れようとする。それを制止しながら、豊成は言った。

「仇は、取るさ」

言葉とともに豊成の放った気に反応して、鬼達が一斉に飛びかかる。三、前から。ニ、後ろから。一、左。一、上。あわせて七。それぞれが豊成の急所を狙う。

豊成は愛刀・烏を上段に構え、樹上から飛び降りてきた鬼の刀を受けんとする。双方の刃が触れた瞬間に肩の力を抜く。すると刀同士が接着したかのように、両者が一体化する。小枝がしなるのにも似た柔らかく小さな動きで豊成が身を捻ると、烏、鬼の刀、鬼の身体、が連動して空に浮いたまま回転し、横から迫ってきていた鬼に叩きつけられる。

どさっ、と倒れた二体とは反対の方向に大きく飛び退ると、前後から襲いかかっていた鬼達が正面衝突の形になる。辛うじて立ち止まり、同士討ちを回避した鬼達だったが、均衡を崩して固まっているところに豊成が飛び込み、あっという間に首が二つ、飛んだ。

2022/05/18

「やめ!散れ!」

軽装の男が叫ぶと、鬼達は動きを止める。そして四散する。首のない二つの身体も、いつのまにか運び去られている。

「誤解しなさんなよ、そこの腕利きとは、一対一にて勝負仕った。卑劣な真似はしておらん。ああ、そうだとも。今のはお前さんが……」

言の途中で、烏の切っ先が男の眉間に飛んだ。最小限の後退でそれをかわすと、何事もなかったように男は続ける。

「……あの者らを威嚇したから起きたことだ。とはいえ、配下の不躾を謝罪する。我が名は、」

次の一撃は斜め下からの斬り上げ。身体を半回転させてかわす。

「愛洲。愛洲礼意と申す。お前さん、強いな。ここまでの武は、久しぶりだ。どうかな。なあ。楽しみだ。もしや、もしや、これは、……ああ、そうだな」

怒りに任せた連撃、のように見せながら、豊成は時間を稼ぎ、冷静に戦術を組み立てていた。攻撃に対する相手の反応からその技量を読み、死に際に何かを伝えようとしていた旧友の意図を探り……

「あの者には、奥の手まで使わされた。しかしお前さん相手なら、ああ、その先が見えそうだ」

「……次の機会もないだろうから、こちらも名乗っておこう。榎本豊成、参る」

言いながら、ゆっくりと、まるで散歩でもするかのように身体に力を込めず、豊成は敵に向かって歩き始める。愛洲はそれを正面に見ながら、剣先を二つとも、地につける。両者が剣の間合いに入ると、愛洲は目を細めながら問う。

「その刀、天国(あまくに)だな?」

「そうだ。烏、と呼んでいる」

その愛刀・烏を、すすと振り上げ、舞い落ちる葉を斬ったあのときの動きで、振り下ろす。

愛洲は二つの剣を交差するように擦り上げて、豊成の刀を受けに迎える……が、両者の得物が接触する寸前で身を引く。

「……なるほど」

感嘆するように、愛洲は頷く。

2022/05/24

「やはり、かなりのものだ。なに?……ああ、そうだとも。あのまま受けていたら、きっとそうなっていただろうな」

愛洲はこくこくと頷きながら、豊成に向かって歩を進める。膝の屈伸をほとんど使わないのに、軽やかに小さく飛び跳ねるような、独特の動き。両手の剣が、不規則に動く。双頭の蛇が、獲物に迫るかの如く。

(動きを読ませないか……)

豊成は、ぐっ、と腰に力を入れて、近くの木を蹴りつける。衝撃で、無数の葉が舞い落ちる。それらが愛洲の身体を包み込む。数歩、前に出る。愛洲そのものではなく、その身体がまとう落葉の動きを見ながら、斜めに斬りつける。愛洲は流れるように、受けの構え。

と、愛洲の左手にあった剣が、宙を舞う。縦に回転しながら地に落ち、ほぼ垂直に突き刺さる。今度は豊成が身体を崩されていた。烏を受けると見せて力を抜いていた愛洲は、右手に残った剣を両手で握り直して俊速の突きを顔面へと放ってくる。豊成は、半身を後方に逸らすようにして、ぎりぎりのところでその一撃をかわし、そして……そして、苦痛の呻きをあげた。

(なんだ……?腹を?)

浅く、致命傷には程遠いが、腹部を横一文字に切り裂かれていた。突きが変化したわけではない。最後まで目で追っていた。

(突きで視界を塞いで、落ちた剣を使ったのか、いや……あれは地に刺さったままだ)

「かーっ、惜しかったなあ、そうだそうだ、もう少しだったのに……身体を後ろに捻ったか、あれが横にかわす動きであれば……しかし、一日に二度も奥の手を使うことになるとはな、今日は全く良き日なり!」

満面の笑みで落ちた剣を地面から抜く愛洲。そのとき、豊成の目に第三の剣が映る。それは、腰の後ろで帯に差してある。短めの直刀。抜き身の刃に、血が滴っている。

(奥の手とはあれか……しかし、どうやって……突きは双手だった……)

一連の動きで乱れた衣服を直しながら、愛洲は再び構える。

「さあさあ、お前さんはこの先に進ませてくれるかな?なあ?ん?……そりゃ期待するさ、こんなことは何度もあるわけではないからなあ」

豊成は、剣友の「遺言」を思い出していた。そして、愛洲の言動と突き合わせた。……浮かんだ答えは、異常なものだった。

2022/06/15

目の前で、二匹の蛇が、再びゆらゆらと蠢く。考えている余裕はない。すぐにも次の攻撃が来るだろう。豊成は、相手の鼻あたりを見ていた視線を落とし、帯の辺りを見るようにした。その目付けの移動に、愛洲も気づいたようだった。感心したように頷き、何かを言いかけ、やめて、にたっと笑う。

(当たりか……しかし、防げるか?)

秘密を見抜いたとて、即座に対処できるわけではない。そこに意識を寄せ過ぎれば、奥の手ならぬ表の双剣に斬られてしまうだろう。

愛洲の剣は次第に動きを速めてゆく。豊成は覚悟を決めた。短く息を吐いて、自ら突っ掛けた。そして双手による下からの切り上げ、愛洲が少し下がりながら交差した双剣で受け止める、すると豊成は切り上げた烏をそのまま直角に振り下ろす。柄で下から迫る「それ」を迎撃する。「奥の手」が握る直刀を弾いた豊成は、愛刀を右手に持って、左手で愛洲の帯を掴み、身体を捻って投げ飛ばす。

豊成の投げによる回転に逆らわず、むしろ自ら転がるようにして衝撃を逃した愛洲は、半回転した身体を起こした。帯が大きく緩み、服が乱れ、そして見えていた。ーー第三の腕が。

脇腹から生えるその腕は、他の二本より短かったが、より鍛えられていた。そして、普段は緩めの衣服に覆い隠されていた。奥の手、とは文字通り、敵の目には隠された第三の腕のことだった。

「ほら、兄者、挨拶だ」

愛洲は、その腕に向かって言った。

2022/06/21

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