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あわれみを閉ざしてはならない

イエスのたとえ話シリーズ No.1 良きサマリヤ人

2024年6月2日

ルカによる福音書10章25節-37節

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

タイトル画像:falcoによるPixabayからの画像


はじめに


今日は、私たちが日々の生活の中で他人に対して示すべきあわれみと共感について、深く考える機会として『良きサマリヤ人のたとえ話』を語っていきたいと思います。

この物語は、私たちがどのように他人に接するべきか、そして真の隣人愛とは何かを教えてくれます。それは、人種や宗教、社会的地位を超えて、困っている人を助け、思いやりの心を持つことです。この物語が、皆様の心に響き、日々の行動に影響を与えることを願います。

良きサマリヤ人のたとえ


「良きサマリヤ人のたとえ」は、イエス・キリストが隣人愛の本質を教えるために話した有名な例え話です。
ある日、律法の専門家がイエスを試すために質問しました。「「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

イエスは彼に尋ねました。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」専門家は答えました。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」

イエスは彼の答えを認め、「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」と言いました。しかし、専門家はさらに問いただしました。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

この問いに答えるために、イエスは一つのたとえ話を語り始めました。

「ある人がエルサレムからエリコへ下る道を歩いていると、強盗に襲われました。強盗たちは彼の持ち物を奪い、ひどく殴りつけて半死半生の状態で道端に放置して逃げて行きました。

たまたま、祭司がその道を通りかかりましたが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行きました。同じように、レビ人もその場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行きました。

しかし、あるサマリヤ人が旅の途中でそこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱しました。次の日、彼はデナリ二つを取り出して宿屋の主人に渡し、『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』と言いました。」

このようなたとえ話を通じて、イエスは隣人とは誰か、そして真の隣人愛とは何かを伝えようとしたのが、今回の記事になります。

律法の専門家

ルカによる福音書
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

ある律法の専門家がイエスを試そうとして、「永遠の命を得るためにはどうすれば良いか」と尋ねます。

『律法の専門家』は一体、どのような人物であったのかといいますと、本文ではνομικός:ノミコスと記されています。
ノミコスとは、正しくは、ユダヤ法(神学)の法学者のことで、旧約法(神学)を専門とし、ユダヤ法の博士でした。 彼は、ユダヤ人の生活や社会と法学に関して精通し、権威を持って 答えられる高度な訓練を受けた律法学者でした。最長12年の律法学者としての経験を経て、モーセの律法を解釈できる「超専門家」がノミコスと言われる役職でした。 このような「律法学者」は、ノモディダース・カロス(「律法の教師」)とも呼ばれました。

つまり、律法の専門家と呼ばれた人物は、ユダヤ法に関する相当な知識と経験を持った類稀なる学識の持ち主であったわけです。現代の日本で言えば、神学者と弁護士の両方の資格を持つような人物であったと言えます。

プロであった律法の専門家は、見ず知らずの田舎者が神の言葉を語り、民衆の支持を集めているというイエスという人物の虚像を剥がそうと思っていたかもしれません。

試されたイエス・キリスト

ここで、『試す』ἐκπειράζων:エクペイラゾーンとありますが、正しくは徹底的に追求して、間違いがあれば訴追するというように訳せる言葉です。
ですから、この専門家はイエスの知識に問題や理論の破綻があれば、徹底的に指摘して、逮捕する口実を見つけてやろうという意志が垣間見えることばです。

ですから、この良きサマリヤ人のたとえを語る時の律法の専門家とイエス・キリストとの対話は、抜き差しならぬ一対一の対決の場であったということが想像できます。

ルカによる福音書10:26-29
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

その専門家の質問に対して、イエスは律法に何と書いてあるかを問い返し、専門家は「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛すること」であると答えます。さらに律法の専門家が「隣人とは誰か」と尋ねたことをきっかけに、イエスはこのたとえ話を語っていくという物語になります。

「隣人」と「ある人」

ところで、『隣人』πλησίον:プレシオンとはどういう意味なのでしょうか。プレシオンとは「近く、隣人」という意味ですから、ユダヤ人であるとか異邦人という民族にとらわれない意味をもつ言葉です。

ルカによる福音書10:30
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

『ある人』Ἄνθρωπός:アンスロポスがエルサレムからエリコへ下る道中で強盗に襲われる事件が発生します。
この『ある人』とはユダヤ人と理解されやすい言葉ですが、アンスロポス(人類、人間)とありますから、ここでは異邦人という可能性もあります。

アンスロポスもプレシオンも人間という意味を持ちますから、イエスはあえてここで、アンスロポスという言葉を用いたのでしょう。

ここで登場する『ある人』はエルサレムからエリコへ旅をします。なんの目的であるかは記されておりませんが、所用があったのでしょう。エリコに向かって下っていきます。

下ると書いてあるから、首都から地方に行くような印象を抱きがちですが、距離にして約28㎞、山の頂上から麓へ約1000mを実際に下る行程をたどります。その間、砂漠や険しい岩地を通っていきます。

このたとえ話は、単なるたとえ話ではなかったようです。実際にあった事件をもとにイエスは真理を説いたと言われております。ですから、この良きサマリヤ人のたとえは、当時の人にとってよく知られた事件であったと言われています。同樣な事例として、ルカによる福音書16:20で金持ちとラザロのたとえが記されていますが、その金持ちとラザロという人物もよく知られており、実際にいた人物としてたとえを述べていたと考えられています。

エリコへの道

ところで、話を戻しますと、エルサレムからエリコまでの旅は、そのほとんどは岩だらけの砂漠地帯であり、山に穿かれた洞窟にアラブ人の盗賊の一団が住みついていました。途中にマアレー・アドミーム(赤い坂)と呼ばれる場所がありますが、伝説では、その辺りに強盗が出没して多くの血が流されたために土地が赤くなったのでそう呼ばれたそうです。

砂漠でもあり、人気が少なくまた、岩地ですから犯行が秘密裏に行うことも可能でした。そうした現場で、『ある人』は殴られ、半死半生の状態で放置されてしまいます。

ルカによる福音書10:31-32
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

エリコは「祭司の町」と呼ばれており、祭司やレビ人が多く住んでいました。エルサレム神殿での奉仕を終えて帰る途中の祭司とレビ人が『たまたま』事件現場を通りかかります。

エリコ遺跡の航空写真 イタリア語:ジェリコの考古学地域の地層 Wikimedia Commons

祭司がその道を通りかかりますが、被害者を見ても助けることなく、反対側を通り過ぎて行きます。レビ人も同じようにその場所に来て被害者を見ますが、彼も反対側を通り過ぎて行きます。二人とも、関わるのが面倒だということで見て見ぬふりだったと考えられます。

あるいは、『ある人』がアンスロポスと書かれていることからして、可能性として異邦人であったことも考えられます。

あわれみを閉ざした理由

祭司やレビ人は異邦人に対しては、信仰上の理由から冷淡な反応を示していました。

出エジプト後,シナイ山での契約を機に,イスラエルは民族意識を高め,神の選民として他民族との分離を表面化していった.申28:1‐14の祝福はアブラハム契約の線上にあり(創12:1‐3),他民族抹殺を前提としたものではない.律法においても異邦人は寛大に扱われていた.イスラエルの男性で異邦の女性と結婚することもあった.ルツなどがその顕著な例である.しかしイスラエルが神との契約から離れ,異教の汚れに染まった時,神は捕囚によって罰せられた.帰還後,イスラエルは自分たちの罪の原因を確認し,再び諸国の異教的教えに汚染されないように,きびしい分離の方向を打ち出した.これはギリシヤ時代を経て,ローマ時代まで受け継がれ,キリストの時代には「異邦人」(〈ギ〉エスノス)は軽蔑と嘲笑を表すことばであった(参照マタ18:17).

『異邦人』新聖書辞典 いのちのことば社

こうしたユダヤ人と異邦人、ことにサマリヤ人に対しては付き合いもしないというように徹底的に嫌悪していました。なぜそうしたのでしょうか。

サマリヤは、ソロモン王の死後に分裂した北イスラエル王国の首都でした。しかし、紀元前722年にアッシリヤ王サルゴン2世によって陥落し、その後、アッシリヤはサマリヤに偶像礼拝をもたらし、雑婚が行われるようになりました。これにより、サマリヤ人は南ユダ王国から宗教的・人種的に節度を欠く人々と見なされるようになりました。
前2世紀、シリヤ王アンティオコス・エピファネスがユダヤ教の根絶を図った際、サマリヤ人は自分たちがユダヤ人と異なることを示すためにゲリジム山にジュピター神を安置しました。その後、ハスモン朝の創始者ヨハネ・ヒルカノスがゲリジム山の神殿を破壊したため(前128年頃)、サマリヤ人とユダヤ人の間の交流は徐々に消失しました(参照ヨハ4:9)。
サマリヤ人との交流を断ち切ったのは、霊的に汚れているという理由があったためでした。

こうして、ユダヤ人は自分たちの信仰を聖なるものにしようとするあまり、異邦人やサマリヤ人に対する分離というものが先鋭化し、対立を生む火種となります。そうした結果、『ある人』がサマリヤ人だと仮定すれば、介抱もされず放置されるということにつながったのかもしれません。

また、なぜ、彼らが介抱してあげなかったのかと考えますと、さらにこうした説も考えられます。死人に触れるものは汚れるという旧約聖書の教えを厳格に守ったというようにも考えられます。

民数記 19:16
また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。
ハガイ書 2:13
そこでハガイは言った。「もし死体によって汚れた人が、これらのどれにでも触れたなら、それは汚れるか。」祭司たちは答えて「汚れる」と言った。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

祭司やレビ人たちは汚れることを極端に忌み嫌いました。なぜかといえば、汚れた人は聖所からも(レビ7:20‐21)、イスラエルの民の交わりからも断たれるからです。それでも、祈りにおける神との霊的な交わりからは除かれなかったようです。

汚れを嫌った理由は、レビ記11:45にあるように「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」とあるように、神が聖であることが求められているためでした。汚れから遠ざかることによって人は神聖な奉仕へと聖別され、神の人として主に対し聖なる者と信じられていたからです。ですから、死体との接触やらい病(ツァラアト)、病的な漏出物や女性の月のものなどは汚れと見なされていました。

凄惨な事件にあっても

こうした、ユダヤ人の思想や信仰に対して、主イエスは、31節のたとえの中で重要な言葉を述べています。

ルカによる福音書10:31
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

主イエスは、『たまたま』と言いました。その元の言葉は、συγκυρίανシギュリアンですが、「神の偶然の一致」という意味です。詳しくは、どのような状況も最終的には神のご計画に沿って行われていることを示す言葉です。

ですから、『ある人』が強盗に襲われたことは、偶然ではなく、そこには神のご計画、すなわち、極端に聖別することを神への忠誠として先鋭化したユダヤ教の神学に対して、その誤りを示すために用意されていた事件ととらえることも可能でしょう。

サマリヤ人の介助

二人の人々が避けて通る中、サマリヤ人が瀕死の被害者を見つけます。サマリヤ人は、ユダヤ人から見て霊的失敗者、落伍者の烙印を押された人です。その彼は被害者を見てかわいそうに思い、近寄って傷の手当てをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱します。
次の日、サマリヤ人は宿屋の主人にデナリ二つを渡し、さらに必要な費用があれば帰りに支払うと約束します。

ルカによる福音書10:36
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

36節の中で、『この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。』というイエス・キリストの問いは、ユダヤ人が誰を隣人と見なすべきなのかということが問われています。それは、ユダヤ人にとって誰が隣人であるかを示す例え話によって間接的に答えられました。

サマリヤ人は、その背景から背教者や妥協者と見なされていましたが、実際には正統派の律法学者よりも優れた律法の解釈者でした。サマリヤ人は愛を施すことが、神の御心であること知ってか知らずか実践したのです。

彼は旧約の律法の核心である「神が人を愛する」という基準を、汚れるとか、考えずに実践していたのです。『ある人』がもし、ユダヤ人であったと仮定すれば、民族の対立を超えて人を救う行為を行うことは、宗教的な対立や民族間の対立を踏まえると非常な困難が伴ったでしょうし、犬猿の仲であったユダヤ人を助けることへの躊躇ということも心に芽生えたはずです。

そうしたサマリヤ人に対して律法の専門家は、愛を施すべき隣人をユダヤ人の中だけに限定していましたが、イエス・キリストは、この事件を用いてユダヤ人もサマリヤ人も異邦人をも隣人として認めるべきであると暗に示されたのです。

サマリヤ人となられた主イエス・キリスト

ここで最も重要なことは、何よりも、主イエス・キリストが私たちのために良きサマリヤ人となり、まず私たちを介抱してくださったことを思い出すべきです。

最初は、イエスが失言や神学的にミスがあれば追求しようとした律法の専門家でしたが、そうした心理を知られた主は、その時代に知られていた事件をもとに専門家の誤りを気づかせました。専門家はその卓越した聖書知識でイエスを論破しようと試みるわけです。

ところが、イエスは横たわる被害者を汚れたものとして、忌避して立ち去った祭司やレビ人が、律法の専門家自身であることを深く知ります。彼は立ち去った彼らこそが、他でもない自分であることを知るのです。

ルカによる福音書10:37
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

そうした、誠実な対応を見せた律法の専門家に対し、イエスはこう語りかけます。

ルカによる福音書10:37
するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

律法の専門家は初め、イエスを論破しようという気持ちでいました。しかし、イエスはその専門家の心を見抜き、適切な言葉を用いて彼の思い上がりを指摘しました。イエスは相手を打ち負かすのではなく、専門家自身があわれみの欠如と神の御心に反していることを悟るように示しました。これこそが、たとえ話の真髄です。さらに、イエスは律法の専門家を論破することなく、あわれみの心をもって優しく神の御心に生きることを説いたのです。主イエス・キリストの偉大さには感嘆せざるをえません。

真のあわれみの深さは、カルバリーの十字架において最も明らかになりました。『あわれみ』と訳されるἔλεος(エレオス)は、神の契約への忠誠や契約への愛を示す言葉です。イエス・キリストは、神の契約を忠実に守るために十字架にかかり、信者たちに対する神の裁きを免れさせました。その贖いの血は、神の契約に対する計り知れない忠誠と誠実を示すものでした(ローマ人への手紙9:15-23)。

このカルバリーの出来事は、律法の専門家に対してもなされたことです。律法の専門家がその後どうなったかについて聖書は語っていませんが、彼もまたイエス・キリストの赦しと愛に包まれたに違いありません。自分が正しいと信じ、他人を非難し、自らを顧みないのはこの専門家だけではありません。私たちも同じような状況にあることが多々あります。

私たちは、このカルバリーの丘で示されたイエス・キリストの愛に立ち返り、聖霊に満たされて隣人愛を深めることで、面倒や手間がかかるという理由で人の必要を蔑ろにしないよう心がけましょう。

多様性のはざまで

現代において、多様性やジェンダーレスが盛んに言われる理由は、偏見や差別が社会の至る所に蔓延しているからです。これらの偏見や差別を乗り越えるためには、サマリヤ人が示した隣人愛の実践が欠かせません。

国境や人種問題、ジェンダーの諸問題などが私たちを取り巻き、その中で対立が生じ、賛成派と反対派が互いに非難し合い、差別しあう現代社会において、良きサマリヤ人のたとえの中で、自分たちが嫌っていた人が、実は自分を助けてくれたという事実は、大きな衝撃を与えるものです。
民族や志向で人々を単純化し区分するのは容易ですが、イエス・キリストが私たちに示されたように、私たちも隣人を愛する努力を怠ってはならないのです。そこには人のニーズを知り、応えていくという困難な作業を忌避してはならないのです。

イエスは最後に、「あなたも行って同じようにしなさい」と言い、この物語を締めくくります。これは、私たちが日常生活において困っている人を見た時に、偏見や差別を超えて助けるべきだという教えです。イエス・キリストが示されたこの隣人愛の精神に従い、私たちも同じように行おうではありませんか。アーメン。

適 用


  • 隣人愛を心がけよう
    イエスはこのたとえを通じて、隣人愛は誰に対しても行われるべきであることを教えます。隣人は地理的や民族的な近さによって決まるのではなく、助けを必要とするすべての人が隣人であり、支える必要があります。

  • 隣人愛を行動に
    隣人愛は言葉や感情だけではなく、具体的な行動によって示されるべきです。祭司やレビ人のように見て見ぬふりをするのではなく、サマリヤ人のように実際に助けることが、キリスト者にとってふさわしいあり方です。

  • あわれみの心を豊かにしていただこう
    サマリヤ人は民族的な対立を超えて、傷ついた人に対して慈悲の心を持ちました。この姿勢が本当の隣人愛であり、イエスはそのように行動することを求めています。