『神が用意をするアドベント』 2023年アドベント第2週
2023年12月10日 礼拝
Ⅱサムエル記
7:7 わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。
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はじめに
前回は創世記3章15節の原始福音を取り上げました。人類の歴史のはじめから神は、救い主の出現を約束し、人類の罪に対しての解答を与えてきました。人類の歴史とともにキリストは存在し、救い主は人類の歴史とともにあったことを暗示させる言葉でした。アダムとエバの時代から約3000年の時を経て、イスラエルの王ダビデを通して救い主の新たな契約が与えられました。今回はダビデ契約を通してアドベント(降誕節)を見ていきたいと思います。
ダビデ契約:神のいつくしみと永続の約束
今回はⅡサムエル記7章を紹介します。この書簡は非常に重要な箇所として知られています。それは、何について述べられているのかと言いますと、「ダビデ契約」(God's Covenant with David)について記されているからです。
契約という概念は、聖書そのものが神と人との関係性を決定するほどに大切な概念であることは言うまでもありません。契約といいますのは、神と神の民(旧約聖書ではイスラエルであり、新約聖書では教会)とを結び合せる関係の締結をいいます。それゆえ、聖書は新約と旧約の2つの聖書に区分されますが、神とイスラエルとの契約を旧約と呼び、神と教会との契約を新約と呼びます。
旧約聖書には、罪によって失われた神の国を回復するために、キリスト、メシヤを送るということが預言されていますが、その中でも重要な預言が3つあります。アブラハム契約・シナイ契約・ダビデ契約の3つの契約がユダヤ人に与えられました。
アブラハム契約
まずは、アブラハム契約ですが、その契約は、神はアブラハムを選んで、アブラハム及びその子孫と契約を立てて彼らの神となると約束する契約です。(創世17:7)
シナイ契約
次にシナイ契約です。これはモーセの時代になってイスラエルが民族にまで成長したとき、主は彼らを律法によって聖別し、ご自身の民とすると約束してくださったものです。この契約は、神がイスラエルをエジプトの奴隷状態より救出し、エジプトから約束の地カナンへと導かれる途中のシナイ山においてイスラエルと契約を結ばれました。(出エジプト19‐24章)
この契約は十戒に代表されますが、律法の契約を守ることが、イスラエルが神の民として結ばれるものでした。
ただし、このシナイ契約を見ると、律法を守ることが契約条項となるため、あたかも『行いによる救い』というように考えられるのですが、実際はそうではなく、イスラエルは、神の恵みや神の祝福を受けるために律法を守るのではなく、すでに神に選ばれ、恵みを受けている民であるゆえに、律法を守るように求められているということです。しかも、選ばれた民が律法を守るように求められるだけでなく、そのシナイ契約の中にはいけにえの規定があり、(レビ1‐7章)罪の赦しの道も契約に記されている点は特筆すべきところでしょう。そうした部分にも、イエス・キリストの救いが暗示されています。
ダビデ契約
今回取り上げるダビデ契約ですが、神は神殿を建てようとしたダビデに対し、神殿建設は差し止めましたが、神のいつくしみを受け続けるダビデ王朝の永続を約束されました(Ⅱサムエル7:16)。この契約は、主がダビデとの契約を結び、ダビデの家系から出るキリストによって、とこしえまでも続く神の国を立てると約束されたことに特徴があります。
神殿建設を願望するダビデ
ダビデは30歳で王となり、40年間イスラエルを治めました。ヘブロンで7年6カ月ユダを治めます。ダビデは王となると、エブス人が支配するエルサレムを攻略してそこを攻め取り、そこを「ダビデの町」と呼びました。ダビデの攻略以来、そこを政治的、軍事的拠点としたのです。こうして、エルサレムで33年間イスラエルとユダ全体を治めます。
エルサレム王宮の建設と幕屋
エルサレムに王宮を建てるために、ツロの王ヒラムがダビデのもとに使者と、杉材、木工、石工を遣わし、王宮が建設されます。
こうしてダビデは神によってますます大いなる者となります。ところが、彼は、一つのことに気が付きます。自分が神によって成功を収めたのにもかかわらず、神の箱は天幕に安置されたままになっていたということです。天幕は、ダビデの宮殿と異なり、あくまでも移動用のものであって、恒久的な建物ではありません。天幕の内部は純金の宝物や神の栄光に満ちていましたが、外側はじゅごんの皮でできていました。
じゅごんとは、クジラ類に似た胴体と小さな頭を持つ大型草食獣で、「人魚」のモデルになったといわれる哺乳類です。テントで用いられるのは、通常帆布という、綿が主原料の幕を使いますが、神の箱に使われる素材としては、皮革ですからかなり強い素材かもしれませんが、ダビデ自身が住んでいる杉材の王宮と比べると、テントですから相当に見劣りします。
そこでダビデは預言者ナタンに、2節で「「ご覧ください。この私が杉材の家に住んでいるのに、神の箱は天幕の中にとどまっています。」と言います。
ナタンは、この言葉に対して「さあ、あなたの心にあることをみな行いなさい。主があなたとともにおられるのですから。」と3節で答えます。
ダビデの動機は、神によって祝福されているのだから、神のために何か貢献したいという率直かつ前向きな動機であったかと思います。その動機を預言者ナタンも積極的に受け止めました。
こうした思いというものは、クリスチャンならば当然のこととして受け止めるでしょう。主も肯定的に評価してくれるに違いないと思うところです。しかし、主の考えはそうではありませんでした。
主は、エジプトからイスラエルの民を連れ上った日から今日まで、家に住んだことはなく、幕屋にいて民を導いて来られたということであって、そして、これまでどのイスラエルの部族にも、ご自身のために杉材の家を建てるように命じたことはなかったということです。それはダビデの思いにすぎず、主の御心ではなかったのです。
幕屋に留まる神の意図
主の御心はこうでした。幕屋は何を意味しているのかと言いますと、それは教会であり、キリストを信じる信徒そのものです。
神の住まいである聖所(幕屋)は、いろいろな細かな材料が生かされ、用いられ、結合されて完成されました。そのことは、キリスト者一人一人が各器官となって、キリストのからだなる教会を築き上げていくというキリスト者の生きる根本原理を教えているのです。
さらには、イエス・キリストを信じることによって、我々自身がイエス・キリスト(聖霊)の御住まいとなり、旧約時代の幕屋・神殿が果した「神とともに生きる」(神の臨在)、「神との和解」(交わり)をより完全な姿で実現されるという神のご計画に沿わなかったという点がありました。
私たちは、立派な神殿や教会堂にあって神と出会う存在ではなく、内在する神にあって礼拝する者へと造り変えられることが神の目的でした。そうした理解のないダビデやナタンは神の意図を理解しかねたのではないでしょうか。
私たちも、壮麗な教会で礼拝したいとか、神にお会いしたいと思うことがあるかもしれません。ところが神は、そうしたところに居られるのではなく、私たちの『ただ中』にあることを覚えていただきたいですし、私たち自身が神の幕屋であることを覚えていただきたいのです。
神の契約とダビデの家系の永遠の約束
主権は神にあること
神殿の建設を願うダビデに対して、主はこう言われました。
7-8節を読みますと、主は一介の羊飼いにすぎなかったダビデを選び、イスラエルの王とし、ダビデがどこに行っても、主が彼とともにいて、勝利を与えてくださったということです。その結果、ダビデは世界史上あらゆる王に勝る王としての不動の名を記すことになります。
そうした王にしたのは、ダビデの能力や努力ではありません。もちろん、彼の資質や人格というものは、神の選びにおいて抜きにして語ることはできませんが、それ以上に何が重要かといえば、それは、主がお決めになる。ということにあります。つまり、神のご主権がダビデの王位を確かなものとしたということです。神が働かなければ、何もできないということを私たちは覚えなければならないでしょう。
ダビデを通して神がもたらしたもの
主はご自身の民のために一つの場所を定め、そこに住まわせてくださいました。エルサレムという町をユダヤ人のための聖地とし、ユダヤ人がイスラエルの地において、敵の恐怖から守られ安心して暮らすことができるようにダビデを王として立てたのは、神の御心の実現でした。
そのダビデの姿は、イエス・キリストが王となりキリストを信じるものが救われ、天国という場において、聖徒一人ひとりが平安を得ることの予表でもあります。
ダビデは主のために家(神殿)を建てようと考えていましたが、神の御心は、そうではなく、主がダビデのために一つの家を造られると言われました。
それはどのような家でしょうか。それはとこしえまでも堅く立つ王国です。それは、ダビデの身から出る世継ぎの子であるソロモンが、ダビデの王国を確立させるということです。南ユダ王国はバビロンの侵略によって滅び、王国は滅亡しますが、その後もダビデの子孫はキリストにまで継承され、永遠の神の国を建てられるメシア、キリストの誕生に至ります。
こうして、新約の時代を迎え、キリストを信じる『教会』という家を通してダビデの王国は繁栄を遂げることになります。
チャレンジと神の計画に信頼して歩む
健全な信仰を持つクリスチャンならば、神のために何かを果たそうという気持ちを持つでしょう。しかし、そうした意欲や、希望、思いというもののすべての背後には、神の御心が働いていることです。
ある人は、ダビデの神殿建設への思いというものは、御心ではなかったと考える人もいますし、上記に上げたⅠ歴代誌からは、度重なる戦争の代償として神殿建設が拒まれたという経緯もあります。
主への熱意は世界を変える
もし仮に、ダビデが正しい判断をして神殿建設をしないことにしようと思慮深く考えたとしたらどうであったでしょうか。早期にダビデ契約がもたらされなかったかもしれません。エルサレムにおいて、王宮が建てられ、王位が確立したときに今回の契約が与えられたというのも意味があることではないでしょうか。
ダビデの神殿建設への思いがありましたが、それは、ダビデ自身の熱心な思いの発露であったことです。信仰への熱心が、ダビデに、いや全人類に対する神の御心を解き明かすきっかけになったような気がします。
神は、私たちへの救いに対して熱心であること、熱心であるがゆえに、神は私たちの間違っててもいい、その熱心さに応えるお方であるということです。
ダビデの神への熱意によって、神のご計画への理解が読者に深まるとともに、同時にダビデ契約が明らかにされたという点において、決してダビデの神殿建設への熱い思いは、御心ではなかったからであるとか、重要なことを主にお伺いも立てずに個人的な判断で即答したのは問題であると短絡的に考えるものでないと考えます。
たとえ、私たちが誤った判断をしたと思ったとしても、神がその背後に働き、正しい道を導き、教えてくれることです。神は私たちが行うよりも早く計画を起こし、その計画どおりに事を行うのです。
その御心を引き出す原動力は一体何であるのか、それは、紛うことなき神への熱い思いです。神は、私たちの熱心な思いを受け止めるお方です。
人間は先のことを知ることはできません。どちらかといえば行動を起こさないと神のご計画を知ることは難しいのです。
もちろん、聖書を読み神の御心を知ることもできますが、行動を起こして神の御心を知ることもよくあることです。ですから、熱い思いを抱いてチャレンジすることを手控えてはなりません。
神はそのチャレンジに対しての答えを用意するとともに、明確な意図を私たちに持っているからです。私たちは、すべてを準備してくれている神に信頼して歩むことが、信仰でありこのアドベントに求められていることです。
アーメン。
黙 3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。