聖書の山シリーズ5 変貌の山 ヘルモン山
タイトル画像:Leifern File:Hula Valley and Mount Hermon.jpg
2022年8月21日 礼拝
聖書箇所 マルコによる福音書9:2-10
詩篇133:3 それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
はじめに
聖書に登場する山シリーズの5回目。今回は、イスラエルの秀峰ヘルモン山を紹介します。古来より、その白さと荘厳さのゆえ人々に愛された山です。この山にまつわる聖書の記事を通して、御言葉を語っていきます。
ヘルモン山
まず、ヘルモン山の位置から見ていきたいと思います。ヘルモン山は、パレスチナの北方に位置し、レバノンとシリアの国境にあるアンチレバノン山脈の最高峰で、標高は2,814mです。山域は広く、1,000平方キロメートルに及び、うち約70平方キロメートルがイスラエルの支配下にあります。
ヘルモン山の気候と気象
ヘルモン山は、標高が高いことで、地中海からの湿った風が高山のヘルモン山にぶつかるため、高温の地中海の風が、急激に冷やされることで、大気中の水分が大量の露となって山を潤します。これはその地方一帯の乾燥気候と対象的であり、聖書の中では、「それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている」(詩133:3)と歌われています。
しかも、冬季には、多量の降雪があり、3つのピークは氷河や万年雪に覆われているほどです。冷凍設備が未発達の頃は、氷をレバノン地方などに供給したため、氷の山と呼ばれたこともあるそうです。
地質は、石灰岩で構成されており、侵食されてカルスト地形を形成しています。石灰岩質であるため、山体自体も白いばかりか、雪に覆われているために、殊に白さが際立つ山です。北東のダマスコ、西のレバノン、南西のナザレ、また南東のハウランのどの方向から眺めても、畏怖の念を抱かせる姿でそびえ立っており、秀峰と呼ぶににふさわしい山容といえましょう。エレミヤ記 18:14では、この様子を描いていると言われます。
潤沢な自然
こうした、多量の降水によって、山の西側と南側からの雪解け水が地下を浸透していきます。この水が山麓で湧き水となり、ヨルダン川の源流となって一帯を潤します。その恵まれた水によって、マツやナラやカシの木、ポプラなどの豊富な植物が生育し、山麓には葡萄園が広がります。非常に自然に恵まれた土地のゆえに、旧約聖書のエゼキエル書では、
と描かれているように、フェニキヤ人はここから船材を切り出しました。自然豊かなこの地には、雅歌によれば、獅子やひょうが棲息していたことも記されています。
軍事的な要衝として
こうして乾燥地域にありながらも、豊富な湧き水を有することから、ヘルモン山は、水を求める国家間の争いの舞台となってきた歴史があります。現在、イスラエル領内では、その山頂にレーダー基地があることから、「国家の眼」とも呼ばれているそうです。
同時に、イスラエルとヨルダンとの国境地帯にあたるため、その軍事的な緩衝地域の北限にある山頂にはUNDOF(国連兵力引き離し監視隊:United Nations Disengagement Observer Force)と呼ばれる国連平和維持活動(PKO:Peace Keeping Operation)を行う部隊の基地が置かれる軍事的な要衝でもあります。
ヘルモン山とイスラエル
このあたりは,ヨシュアによる征服地域の北限となっていました。
モーセがエジプトから出て後、イスラエルの民は、約束の地であるカナンに戻ってきます。そこで、カナン人たちとの戦いを経て、カナンの地の北限としてヘルモン山までを占領していきます。現在、イスラエルが国土の北限としてヘルモン山を据えているのは、こうした歴史的な背景があるようです。
ヘルモン山と宗教
ヒエロニムスは、南端の峰にはカスル・アンタルと呼ばれる他民族の拝殿があると記していたことを裏付けるように、山頂には神殿の跡があります。また、斜面にも聖所の遺物が多数見られます。バアル・ヘルモン山(ヘルモンの肥沃神の山)という別名(士3:3)があることからも、現地の人々の信仰の聖地としての役割があったようです。新約聖書のマルコによる福音書では、イエス・キリストの変貌について語られていますが、
その高い山とはヘルモン山であると言われています。その証拠として、山を目指す前に、滞在してたのが、ヘルモン山麓の南に位置するヨルダン川の4水源の一つの町である、ピリポ・カイザリヤであったからということです。
新約聖書では、イエス・キリストが弟子を伴いガリラヤ湖畔のベツサイダからヘルモン山南麓のピリポ・カイザリヤの町へ旅したことを伝えています。(マタイ16:13、 マルコ 8:27)。この地でイエスは自分の教会を建てることと、エルサレムに行き、死んで復活することを弟子たちに予告したことで知られています。(マタイ 16:18-21)。
キリストの変貌の地
このように、様々な側面を持つヘルモン山は、地理的にも、景観的にもわたしたちに様々な情報を提供してくれる山であることが理解できます。
ところで、まず断っておきたいことがあります。それは、ヘルモン山がキリストの変貌の地として紹介されることも多いのですが、具体的な記述がないので不明であることです。聖書では、『高い山』としてしか記されていないので、ヘルモン山かどうかがわかりませんが、今回は、高い山をヘルモン山という前提で語っていきます。
さて、話を戻しますとイエス・キリストがなぜ、高い山を選ばれたのかということです。これまで神がご自身の重要な啓示を現される場として、山をしばしば選ばれます。モーセはホレブの山の麓で「火で燃えているのに燃え尽きない柴」を見つけました。さらに、その山で神から律法を受け取りました。預言者エリヤもホレブの山に導かれ、彼の後継者エリシャに油を注ぐように語られました。このように、高い山に人を導かれるのは、神が彼らをご自身のご計画における重要な啓示の証人としての場とするためです。つまり、高い山は神の啓示の場であるということと、そこには意味があることを考える必要があります。
聖められる場として
マタイの福音書17章2節には
一方、マルコには、顔の部分の記述はなく、
と記しています。いずれにしても、輝きの白さは神の神性をあらわすもので、それはこの世のものではありえないほどの白さであったということです。この記述は、山の頂が白く輝くヘルモン山を想起させますが、イエス・キリストの神性を象徴する描写です。
ここで、「御姿が変わる」とありますが、この原文はμεταμορφὁω メタモルフォオーという言葉です。この変貌という言葉は、姿が変わるということではなく、神によって変えられるという意味になります。まさに、周囲を砂漠や乾燥地域に取り囲まれたヘルモン山も、このイエス・キリストのように、神によって白く姿を変えられた山であります。下の図をごらんください。上空からの衛星写真でヘルモン山を見ますと、それがよくわかります。
周囲は茶色の砂漠地帯、一方ヘルモン山の山域は白く変わっていることからも、その特異性が際立っているのが理解できます。聖書は、ヘルモン山がイエス・キリストの変貌の山と記述していないのですが、こうした共通性を見ます時に、ヘルモン山は、イエス・キリストの変貌の姿の予表とも言えましょう。
恵みの場として
ヘルモン山の豊かな水の恵みは、イスラエルを潤す山として描かれています。その降水は、砂漠をオアシスとし、ヨルダン川の水源になっています。その豊かな水は、イエス・キリストが育ったガリラヤ湖に注ぎこみ、周囲を豊かな水産業や、農業を生み出すもととなっています。つまり、乳と蜜の流れる地の源流は、ヘルモン山の豊かな水と自然によって成り立っているということです。
ヘルモン山にぶつかった地中海の気流は、ヘルモン山で一気に冷却され、露となります。その露が降水や降雪となりヘルモン山に降り注ぐと、砂漠の一帯が緑に覆われます。まさに、ヘルモン山の存在は、いのちの祝福を象徴している場であることがわかります。
神のご計画の完成が語られる場
マタイ17:3を見ますと、モーセとエリヤとイエスが会見をしているという内容が記されています。なぜ、聖書の著者がモーセとエリヤであるのがわかったのかということについては不明ですが、イエスと会見した人物がモーセとエリヤである明白な言葉をそこで聞いたのでしょう。
ところで、モーセとは、律法を代表する者であり、エリヤは預言者を代表する人物であるということです。つまり、二人は何を示しているのかといえば、「歴史書と預言書」を意味し、二人を併せて「旧約聖書全巻」を代表しているということになります。その二人の信仰の偉人たちが、弟子たちの前に現われ、イエスと語っていたということです。
ルカによる福音書によれば、その時の会話について記されています。
ここで、「最期」と訳された言葉があります。ἔξοδον(エクソドン)と本文では記されています。原型はἔξοδος(エクソドス)。つまり、出エジプトと同じ言葉です。エクソドスとは、下記のような意味があります。
出口、出発
キャリアの終わり、最終的な運命
人生からの出発、死去
旧約聖書が一貫して伝えていることをあらためて思い起こしますと、それは、イスラエルの民が、罪から救い出されて、神の民として回復することが目的です。そのゴールがイエス・キリストの到来にあたるわけです。
そのことについて旧約聖書を代表するモーセとエリヤがイエスと会見していたのです。
それは、旧約聖書を代表するモーセが語り、かつ預言者たちによって預言されてきたイスラエルの救いの約束が、イエス・キリストの十字架と復活によって成就されるという神のご計画の完成が、『高い山』で弟子たちに啓示されたということです。
ヘルモン山といのちの水
こうして、ヘルモン山と聖書との関わりについて見てきましたが、その中心的な意味合いは、どこにあるのかといいますと、
『露』に示されている『水』にあります。水は、すべてのいのちを潤し、生かす源です。その水源としてヘルモン山が選ばれています。まさにヘルモン山とは、枯れない泉の象徴でもあり、いのちの水をこんこんと湛えるオアシスのようでもあります。これは、まさしくイエス・キリストの予表でもあることです。
イエス・キリストを信じる者は、『泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』砂漠にありながらも、その頂には常に雪をかぶり、水があふれ出るヘルモン山はイエス・キリストそのものです。
そのイエス・キリストは、神の似姿の反映でもあり、その救いを得た者は、ヘルモン山の麓の泉のようであります。
溶けた雪解け水は、地下の水脈を通し、麓の泉は濾されて静謐な水を湛えます。まさに、私たちとイエス・キリストとの関係は、ヘルモン山とその麓の泉やヨルダン川と同じではないでしょうか。
たとえ、社会や環境が罪によって、乱され、たとえ乾ききっていたとしても、私たちは、永遠に涸れることを知らない泉としてこの世を潤す存在へと変えられているのです。
これは、キリストの御霊の働きです。神を信じる者に与えられた祝福です。ちょうどヘルモン山が砂漠の中に白く輝くように、私たちも主イエス・キリストの栄光を反映し、ヘルモン山のように姿が変えられていることを忘れてはなりません。ヘルモン山は、イエス・キリストの予表でもあり、また、救われた私たちの姿の予表でもあります。自分は気が付かないかもしれません。しかし、周囲の人々は気がついています。それは、あなたが世の者ではないことを。ぜひ、そのことに気がついていただきたいと思います。
また、読者の中には、イエス・キリストを信じていない方もいるかも知れません。黙示録にはこうあります。
イエス・キリストはあなたを招いておられます。ぜひ、その招きに応じてはいかがでしょうか。イエス・キリストは、あなたが信じることを招いています。
適 用
祈りと瞑想の場所を設けましょう
ヘルモン山は、その壮大な自然と神聖な歴史から、祈りと瞑想の場でした。イエス・キリストが弟子たちと共に高い山に登り、その場で変貌を遂げたという記事は、私たちが祈りと瞑想を通じて神との深い関係を築くことが重要であると教えてくれます。
自宅の静かな場所や教会の礼拝堂などを、自分だけの「ヘルモン山」に見立て、そこで神との時間を持つことを心がけようではありませんか。
神の創造と恵みを日々おぼえていきましょう
ヘルモン山の豊かな自然は、神の創造の素晴らしさと、その恵みを私たちに思い起こさせます。山から湧き出る水は、周囲の乾燥した地域を潤し、生命を育む源となります。これは、イエス・キリストが「いのちの水」であり、信じる者すべてに永遠のいのちを与えるというメッセージを象徴しています。日々の生活の中で、自然の美しさや庭の小さな生命のいとなみを目の当たりにしたとき、それら全てが神の恵みであることを思い出してみてはいかがですか。
闘争の人生の中での信仰
ヘルモン山は、その地理的な位置から、歴史的に多くの争いの舞台となってきました。しかし、その山は乾燥した環境にもかかわらず、生命を育む源を持ち続け、その存在を保ってきました。これは、私たちが人生の困難や挑戦、いさかいに直面しても、信仰を通じて神の力を借り、困難を乗り越えていくことができることを示しています。そうした困難な状況に直面したときでも神のいのちが泉のごとく湧き出、神が常に私たちと共にいて、必要な力と導きを与えてくれることを信じましょう。