ダビデの嘆きの詩篇――打算的でない関係
2024年8月11日 礼拝
詩篇55章14-17節
指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデのマスキール
55:14 私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。
55:15 死が、彼らをつかめばよい。彼らが生きたまま、よみに下るがよい。悪が、彼らの住まいの中、彼らのただ中にあるから。
55:16 私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。
55:17 夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。
新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)
タイトル画像:Kanō Tan'yū, Public domain, via Wikimedia Commons
はじめに
人間関係は複雑です。時に親密になり、またあるときは離反する。そうした連続に振り回される日々が私たちの日常でもあることです。今回は、前回に引き続き、旧約聖書55篇をもとに、人間関係の脆さと、神との永遠の契約を深めていきます。
イスラエルの王ダビデの生涯における最も暗い時期の一つ、息子アブシャロムによるクーデターと、側近アヒトフェルの背信という未曽有の危機的な状況を通じて、私たちは真の友情とは何か、そして神との関係性の核心に迫ります。
さらに、救い主イエス・キリストが用いられた「アバ」という呼びかけの深い意味合いや、それが示唆する神との新たなる契約関係についても考察を加えつつ。日本の歴史上の逸話との対比や、新約聖書の教えをも織り交ぜつつ、信仰を堅持する者の生き様について、洞察を深めていきます。
このメッセージを通じて、私たちは人間関係の難しさを認識しつつも、それを超越する神の愛の深さと、その愛に基づいた新しい関係性の可能性を見出すことができるでしょう。それでは、この豊かな内容に一緒に目を向けていきましょう。
深い亀裂の果て 麗しき友情から絶望の淵へ
詩篇55:14-15に目に映るのは、麗しい人間関係と一瞬にして崩れ去る友情の悲劇です。この二つの節を深く見つめると、まるで一枚の絵の中に、光と暗黒とが激しくせめぎ合う様子が浮かび上がってきます。
14節は、かつての麗しい日々を描いています。
「私たちは、いっしょに仲良く語り合い、神の家に群れといっしょに歩いて行ったのに。」
この一節から浮かび上がるのは、穏やかで温かな光景です。ダビデとアヒトフェルがプライベートで肩を並べて歩む姿が目に浮かびます。二人の間には親密な会話が交わされ、その言葉の端々には互いへの信頼と尊敬が滲んでいます。彼らの足取りは軽く、顔には穏やかな笑みが浮かんでいたでしょう。
周りには神殿を参詣する人々の姿も見えます。皆で一緒に神の家へと向かう道すがら、そこには信仰を共有する人々の高揚感に満ちた一体感と喜びが満ちています。空気は清々しく晴れ晴れとし、鳥のさえずりが聞こえてくるような、平和な雰囲気が漂っています。この情景には、信仰を共にする喜びと、深い友情の温もりが満ち溢れています。
しかし、15節に目を移すと、その情景は一変します。
「死が、彼らをつかめばよい。彼らが生きたまま、よみに下るがよい。悪が、彼らの住まいの中、彼らのただ中にあるから。」
ここでは、先ほどまでの穏やかで平和な光景が一瞬にして暗転します。かつて信仰と恵を語りあった友は今や敵となり、その存在自体がダビデにとって脅威となっています。先ほどまで共に歩んでいた道は、今や深い亀裂が走り、二人を隔てています。
良きアドバイザーであり、相談相手であったアヒトフェルの姿は、もはや信頼できる助言者のそれではありません。その目には裏切りの色が宿り、かつての友情の面影はどこにも見当たりません。息子アブシャロムのクーデターにより、ダビデの周囲は、もはや安心できる仲間はおらず、孤独と不安が渦巻いています。
かつての平和な空気は一変し、今や緊張と恐怖が満ちています。ダビデの心の中では、裏切りの痛みと怒り、そして深い悲しみが渦を巻いています。彼の言葉には、この状況の理不尽さへの抗議と、正義への切実な叫びが込められています。
主に助けを求めるダビデ
ダビデの人生における最も暗い時期の一つを共に見つめてみましょう。その状況の深刻さと、彼の信仰の本質を理解することで、私たちも大きな学びを得ることができるでしょう。
エルサレム、ダビデの統治の中心地が、息子アブシャロムの反乱軍に無血開城されるという事態は、単なる政治的敗北以上の意味を持っていました。それは王としてのダビデの権威が根底から揺るがされる、まさに存亡の危機だったのです。想像してみてください。自分が建て上げてきた全てが、一瞬にして崩れ去るような感覚を。
さらに追い打ちをかけるように、ダビデは最も信頼していた側近アヒトフェルの裏切りという、あり得ないはずの現実に直面しました。長年の親友であり、賢明な助言者であった人物が、突如として敵となる。この衝撃は、私たちの想像を遥かに超えるものでしょう
。
このような絶体絶命の状況下で、ダビデは何を選択したでしょうか。彼には豊富な戦争経験があり、優れた戦略家としての評価も高かったはずです。
しかし、彼はまず自身の知恵や経験に頼ることを選びませんでした。代わりに、彼が最初に行ったのは、主なる神に祈り求めることだったのです。
これは単なる偶然ではありません。ダビデは数多くの戦いと試練を通じて、一つの重要な真理を学んできたのです。それは詩篇55:16に明確に表現されています。
「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる。」
この言葉は、ダビデにとって空虚な格言や理想論ではありませんでした。それは彼の人生を通じて繰り返し証明された、揺るぎない事実だったのです。戦場での危機、政敵との闘争、個人的な罪の苦しみ―これら全ての場面で、ダビデは神の救いの力を直接体験してきたのです。
私たちの信仰は、往々にして観念的なものにとどまりがちです。聖書の言葉を読み、頭では理解していても、それを本当に信じ切れないこともあるでしょう。あるいは、半信半疑のまま日々を過ごしているかもしれません。
しかし、ダビデの信仰は違いました。彼は人生の様々な局面、特に最も困難な状況において、神の誠実さと力強さを実際に目撃し、体験してきたのです。だからこそ、この危機的状況においても、彼は躊躇なく神に向かって叫ぶことができたのです。
16節の言葉は、ダビデにとって単なる希望的観測ではありません。それは彼の人生をかけて証明された真理であり、深い確信に基づく信仰告白だったのです。
この姿勢から、私たちは重要な教訓を学ぶことができます。真の信仰とは、困難な状況に直面したとき、まず自分の力や知恵ではなく、神に頼ることを選択する勇気です。そして、そのような信仰は、日々の小さな経験を通じて徐々に築き上げられていくものなのです。
ダビデの例は、私たちに挑戦を投げかけています。私たちも、日々の生活の中で神の誠実さを体験し、どんな状況でも神に信頼を置く信仰を育んでいくことができるでしょうか。それこそが、この古い詩篇が現代を生きる私たちに問いかけている、永遠の問いなのかもしれません。
徳川家康とダビデ
アブシャロムのクーデターは、ダビデにとって最悪かつ最も深刻な事態でした。裸同然で逃亡を図り、軍をまとめられないまま逃げざるをえない状況でした。
ダビデの経験は、日本の歴史上の出来事と驚くべき類似点を持っています。徳川家康の「伊賀越え」のエピソードは、ダビデの状況と重なる部分が多く、興味深い比較となるでしょう。
1582年、本能寺の変により織田信長が倒れた後、家康は危機的状況に陥りました。彼は敵に囲まれ、わずかな家臣とともに伊賀の山中を逃げ延びなければなりませんでした。この「伊賀越え」は、家康の人生における最大の危機の一つでした。
ダビデがエルサレムから逃げ出さざるを得なかった状況と、家康が伊賀の険しい山道を越えなければならなかった状況は、驚くほど似ています。両者とも、突如として権力の座から転落し、命からがら逃げる立場に置かれたのです。
しかし、ここで両者の対応に注目すべき違いがあります。家康は自らの知恵と経験、そして忠実な家臣たちの助けを借りて危機を脱しました。一方、ダビデは確かに知恵を用い、忠実な部下たちの助けも得ましたが、それ以上に神への信頼を第一としたのです。
ダビデの「私が、神に呼ばわると、主は私を救ってくださる」という言葉は、彼の信仰の核心を表しています。家康が主に自身の能力と家臣の忠誠に頼ったのに対し、ダビデは最終的に神の救いを求めたのです。
この対比は、信仰を持つ者と持たない者の違いを鮮明に示しています。家康の経験は人間の知恵と努力の重要性を教えてくれますが、ダビデの例は、それらに加えて神への信頼がもたらす力を示しているのです。
両者とも最終的に危機を乗り越え、より強大な権力を得ることになりました。しかし、その過程と心の在り方には大きな違いがあったのです。この比較は、私たちに危機における対応の仕方、そして信仰の役割について深く考えさせてくれるのではないでしょうか。
アバ父と呼ばれる関係性
人間関係の複雑さと神の変わらぬ愛について、共に深く考察してみましょう。詩篇55:17に記されたダビデの言葉は、彼の内なる苦悩と、同時に神への揺るぎない信頼を鮮明に描き出しています。
「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」
この一節には、ダビデの率直な心情が綴られています。彼の嘆きは一時的なものではなく、一日中絶え間なく続いているのです。しかし、注目すべきは、この嘆きの中にあってもなお、彼が主に向かって声を上げ続けていることです。そして、何より重要なのは、主が常に彼の声を聞いてくださるという確信です。
真の友とは誰か
真の友とは何でしょうか。それは、私たちの心の奥底まで理解し、どんな時も寄り添い、適切な助言を与えてくれる存在ではないでしょうか。かつてのアヒトフェルは、ダビデにとってそのような存在だったかもしれません。しかし、人間関係の脆さは、この親密な関係さえも壊してしまいました。
アヒトフェルの裏切りの背景には、複雑な感情が絡んでいたと推測されます。バテ・シェバの祖父として、ダビデの不倫を完全には許せなかったのかもしれません。そこには、表面上の友好と内なる葛藤が共存していたのでしょう。
人間関係の現実は、往々にして打算的です。箴言19:7が鋭く指摘するように、「貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。」この言葉は、利益や有利さを基盤とした人間関係の脆弱さを露呈しています。
しかし、この世の友情とは対照的に、イエス・キリストは私たちを無条件に「友」と呼んでくださいます。ヨハネの福音書11:11でイエスは、「わたしたちの友ラザロは眠っています」と語ります。この「友」という言葉には、深い愛と信頼が込められています。
ラザロの蘇生の物語は、イエスの友情が死をも超越することを象徴的に示しています。イエス・キリストは、この世の常識や限界を超えて、信じる者に測り知れない恵みを与えてくださるのです。それは、死によっても断ち切られることのない永遠の絆です。
ダビデは、このような主の本質を深く理解していました。だからこそ、彼は躊躇なく自分の弱さや苦しみ、時には怒りさえも主の前にさらけ出すことができたのです。人間の友は、私たちの内面を完全に理解し、適切な助言をすることは難しいかもしれません。しかし、イエス・キリストは私たちの全てを知った上で、なお徹底的に受け入れ、弁護してくださるのです。
イエス・キリストの愛の特異性は、その無条件性にあります。私たちの過去や現在の状態に関わらず、信じる者には惜しみなく自身を差し出してくださるのです。この真理は、私たちに深い慰めと希望を与えてくれます。
この詩篇を通して、私たちは人間関係の複雑さと脆さを認識すると同時に、神の変わらぬ愛の深さを再確認することができます。どんなに困難な状況にあっても、私たちには常に耳を傾け、理解し、受け入れてくださる真の友がいるのです。
アバ父
イエス・キリストが用いられた「アバ」という呼びかけは、単なる言葉以上の深い意味を持っています。この言葉は、神との関係性における革命的な変化を象徴しているのです。旧約聖書の時代、神は畏れ多い存在として捉えられ、その御名を直接呼ぶことさえ避けられていました。しかしイエスは、神を親密な「お父さん」として呼びかけることで、私たちに神との新しい関係性の扉を開いてくださいました。
この「アバ」という呼びかけには、神との関係性における様々な側面が凝縮されています。それは、幼い子どもが父親に対して抱く無条件の信頼と愛情、そして安心感を表現しています。同時に、どのような状況下でも、ありのままの自分を受け入れてくれる父親の姿を想起させます。さらに、遠い存在ではなく、いつでもそばにいて話しかけることができる、近づくことのできる神の存在を示唆しています。まるで慈愛に満ちた父親が子どもを守り導くように、神も私たちの人生を見守り、導いてくださるという確信がこの言葉には込められているのです。
ダビデ王やパウロの言葉は、この「父なる神」の概念が旧約から新約にかけて一貫して存在し、さらに深められてきたことを物語っています。特に、パウロが「子とする御霊」について語る際、それは単なる比喩を超えた深い霊的な現実を指し示しています。私たちが神の家族として本当に受け入れられるという、驚くべき真理を表現しているのです。
私たちもまた、この「アバ」という呼びかけを用いることができるという事実は、キリストを通して神の子とされた私たちが、神との親密な関係に招かれていることを意味します。これは、形式的な宗教的義務や儀式を超えた、生きた関係性への招待状なのです。
しかし、この親密さは決して軽々しいものではありません。イエスが最も苦しい時に「アバ」と呼びかけたように、私たちも人生の喜びと苦難の両方において、この呼びかけを用いることができます。
それは、ダビデも同じでした。ダビデは、真の友を超えて、自分の父親以上の親密さをもって、主に近づいていたのです。これが、17節が示すものです。これは、どのような状況下にあっても、神の変わらぬ愛と臨在を信頼できることを意味しています。
「アバ」という概念は、キリスト教の核心にある神の愛と恵みを美しく表現しています。それは、私たちが完璧でなくとも、神が私たちを無条件に愛し、受け入れてくださるという力強い真理を示す象徴です。この真理を心に刻むとき、私たちは日々の生活の中で、より深く、より親密に神との関係を築いていくことができるでしょう。そして、その関係性の中で、私たちは真の安らぎと力を見出すことができるのです。
この認識は、私たちの日々の生活にどのような変化をもたらすでしょうか。他者との関係において、また自己との向き合い方において、神の無条件の愛を反映させることができる秘訣でもあります。誰も断ち切ることができない主イエスとの関係が、あるからこそ、私たちは他者に依存するのでもなく、信頼できないと落胆するのでもない真の関係性を作ることができるのです。ダビデの経験と信仰は、私たちに深い内省と、より豊かな人間関係への道を示しているのです。
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。