2023年元旦礼拝『新しいことをなす主』
Title fotogragh by Annette Meyer via Pixabay
2023年1月1日 元旦礼拝
イザヤ書43:19
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
はじめに
2023年の新年を迎えました。皆様あけましておめでとうございます。
昨年は、戦争や疫病が世界を覆い、不安というベールをぬぐうことのできない日々でありました。
年頭にあたって私たちに向けられた神のみことばはいかなるメッセージを与えようとしているのでしょうか。
この元旦礼拝に豊かな祝福がありますように。
変わらない現実のなかに
古来より日本では、一年の計は元旦にありと言いまして、何事もまず初めに計画を立てることが大事であるという意味ですが、こうした慣習にならって、計画を立てたことでしょう。
さて、みなさまはどんなことを神に祈りましたか。
今年の元旦に取り上げる箇所は、イザヤ書43章19節を取り上げます。
この御言葉は、旧約聖書の預言者イザヤを通して、ユダヤ人に与えられた神の言葉です。
このことばがいつ語られたのかといいますと、バビロン捕囚(紀元前597-538年)から約50年ほど過ぎた時代に預言されたと言われています。
当時のユダの捕囚民の大部分はバビロニア帝国にあるニップル市の近くを流れる灌漑用運河であったケバル川沿いに移住させられていました。一方、職人など熟練労働者はバビロン市に移住させられ主としてネブカデネザル2世が熱心に行っていた建設事業に従事させられていたということです。
イザヤの慰めと希望に満ちた救いの預言は、捕囚から50年以上の歳月が過ぎ、バビロニアに国を滅ぼされ、遠く祖国から拉致されて、神の民として選ばれている選民が、異邦人に奴隷として扱われ賤民として扱われている惨めな現実の中で、希望を失っていた者に対して語られたことばです。
絶望の原因
バビロニア帝国は、当時経済的にも軍事的にも中近東世界の覇権を握る強大な国家でした。そうした強大な国家ですから、謀反を起こせばすぐに鎮圧されることとなるわけで、容易に覆ることがない。これからも支配は変わることはないと当時のユダの人々は心のなかで思っていたとことでしょう。こうした悲惨の原因を、親や祖父たちの犯した神への不信の罪のせいであると考えていました。時代が変わり、捕囚時代に生まれた子どもたちは、本来受け取るべき神の民としてのユダヤ人としての地位が損なわれたまま、神は異国にあって何の助けも与えず、未来に希望を示す言葉も働きもないという現実を見て、神に対する不信感だけが募っていきます。当然のことながら、神がユダヤ人を選び、救いの歴史に目を向けるであるとか、将来への希望が彼らの心の中から湧き上がることはなかったのです。
見よ!
そうした絶望と諦め、諦めという低空飛行を余儀なくなれた人々に向けて、神は一条の光を与えるのです。何も見出すことのできない人々に対して、神は、הִנְנִ֨י(ヒンニー)と呼びかけます。日本語では『見よ』という言葉です。神はまず、希望のない民に力強くヒンニーと呼ぶのです。
その後、『わたしは新しい事をする。』と宣言します。ヘブル語では、オーセー・ハダサーということばです。オーセーということばは、『すること』という意味で、任命する、生み出す、実行する等々の意味があります。また、準備するであるとか、提供するといった意味を持ちます。
ハダサーは、 新しい、最近の、新鮮なという意味を持ちますが、 「以前には存在しなかった」という意味があります。
ですから、神は、預言の読者にこういうのです。
『私は、以前になかったものを提供する』
と訳されることばです。
今、もうそれが起ころうとしている。
捕囚として辛酸を舐め続けたユダヤ人に神は、事を用意しているというのです。しかも、『起ころうとしている』と訳されたことばは、ツァマックということばですが、その意味は、出す、湧き出るということばです。さらには、枝、成長、春が来る、発芽するという意味を持ちます。ですから、『起ころうとしている』というよりは、今まで、じっと地中の中でじっとしていた種が芽吹く時を迎えたということになります。
長い冬を終え、春を迎えようとする季節は一年中で最も寒い時期です。ちょうど1月末から2月初旬の頃でしょうか。そうした時期は、日差しは春めいて来ますが、最も寒い時期でもあります。こうした寒風に凍えていますと日差しよりも寒さを避けようと身構えてしまうものですが、神は、芽が出るように準備をしていてくれているというメッセージが込められています。
また、ツァマックは、イエス・キリストを示すことばでもあります。
今や、私たちにイエス・キリストが与えられ、それが実現しました。その預言によって私たちは、真に生きるものとされ、成長する者へと日々更新されていることを覚えたいと思います。
荒野に道を用意する神
神は、寒風吹きすさぶ春の日に、萌えだそうとする新芽に対して、枯れさせようとするお方ではありません。
一見すると寒空に舞う北風は、人生の荒野のようであります。体温を奪う風に対して、必死にコートの襟を立て、風に抗うようにして歩むことが人生であるかのように感じている人々に対して、神は道を用意すると語ります。
道をデレックと本文では記していますが、単に道というものを示すだけでなく、それは神が示す道を意味します。わかりやすく言えば、『神の導き』です。
人間には、様々な道がありますが、本当の道は、主だけが持っているものです。イエス・キリストは道であるとご自身が語りましたが、
このデレックということばは、まさに私たちの主イエス・キリストにつながることばです。
つまり、デレックということばは、神に選ばれた人々にとって、比べることのできない特権を持つ「みちびきの人生」を表しています。このデレックは複数形で「舗装された道」を示すことから、主によって前もって準備され、され、信仰が与えられることによって、常に知ることができるものとして備えられたものなのです。
人生という旅路は、クリスチャンにとって、途切れることのない永遠の意義を提供する場でもあります。私たちは、この世にあって旅人でありますが、神が定められた人生という道を積極的に「歩き出す」ことが信仰であり、用意された人生を生き生きと積極的に生きるように神がご用意してくれていることが、この箇所の意味になります。
見捨てられた者たちに
神は、19節の中で『荒地に川を設ける。』とありますが、そこで『荒地』という訳ですが、原文のヘブル語では、イェシュモンということばです。直訳すると、廃棄物、転じて荒野という意味です。つまり、だれも相手にしない対象です。つまり、見捨てられたものということでしょう。
まさに、直接語られた捕囚のユダの人々は、イェシュモンでありました。
捕囚の民は、心の中は、絶望に満たされ、奪われたものに集中しすぎるために心は、干からびていました。
心の中に希望も何も湧きいでるものは無い、そんな中にあった彼らに、主イエス・キリストという道を与え、その道に歩むことで、私たちの人生に春がやってくることへの希望を、預言者イザヤを通して教えてくれます。
そのイザヤの言葉どおりに主イエス・キリストを信じる者の心には、『川』(ナハロート)が与えられるということです。イエス・キリストを生ける泉というように形容もされますが、泉を超えて『川』となり、いのちの奔流をいただくのが私たちクリスチャンです。
私たちの外側、内側を見てみると、たしかに見捨てられ、廃棄物のような存在かもしれません。しかし、イエス・キリストの道を抱く者には、『川』(ナハロート)が示すことばの意味である、ユーフラテス川、洪水、流れという広大ないのちの水の奔流を持つ者として変えられている。その約束を今や受け取り、そのことが私たちに身にあって実現しているということを教えられるものです。
ぜひ、みなさま、この神の熱いことばをいただき、今年一年が神によって与えられ、私たちへの計画も用意され、準備されていることを思い出していただきたいと思うのです。
私たちは、失敗や罪を繰り返すでしょう。しかし、そこに私たちの焦点を当てるべきではありません。
神は、繰り返し何を語っているでしょうか。
ヒンニー(見よ!)というのは、主イエス・キリストです。私たちの失敗や罪ではありません。失敗や罪は私たちがなんとかするものではありません。主イエス・キリストの血潮に委ねるものです。私たちは、主イエス・キリストが示してくれた、舗装された道を歩むものです。今や、私たちは、新しいことへの萌芽を抱いています。その芽とは、イエス・キリストです。ぜひ、このことを覚えて、今年一年を主イエス・キリストと歩みだしましょう。アーメン。
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。