こもりく

基本は旅日記です。海外旅行や日本各地の旅行を含みます。また、宗教論や能楽なども基本的に…

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基本は旅日記です。海外旅行や日本各地の旅行を含みます。また、宗教論や能楽なども基本的には現地に立って見えてきたことを語りたいと思います。

マガジン

  • 信仰や古典に関すること

    信仰や古典に関する記事をまとめています。基本的に自分で歩いて見て感じた旅日記です。奈良関連の記事が多いです。

  • フィリピン

    フィリピン旅行の思い出を書き連ねます。歴史や戦争を考えました。

  • 旅の思い出

    とにかく「旅」「移動」に関するいろいろなことを・・少しマニアな記事も

最近の記事

2024年春、奈良の桜と「西行桜」

4月上旬、桜井から川上村に向った。この時、宇陀を通るので、又兵衛を見物しようと思った。しかし甘くはなかった。渋滞がすごい・・諦めて川上村に向った。 川上村の丹生川上神社上社。山の中腹にあるこの神社に立つと、本当に龍神が風を起こしているような爽快な気持ちになれる。この空気を味わいたくて年に数回お参りに来る。眼下のダム湖、その周りの山々の新緑と桜。 神社参拝後はさらに奥に入って入之波温泉山鳩湯へ。名物の釜めしを食べたあと、再び宇陀を通ったので、今度こそはと又兵衛桜に行ってみた

    • 死後も恋人を待つ姉妹―能「松風」と須磨

      私は歴史の場を訪ねるのが好きだ。 好きというよりそれが生業の一部だ。 そうした場では、がんばって想像力を掻き立ててみる。そして、当時の様子を思い浮かべる。 当時の人の心がまだそこに残っていると思うことがある。 といっても、別に「霊感が強い」とかではない。お墓や戦跡などでは誰でも怖いだろう。それと同じだ。 以前、虐殺や政治的弾圧がなされた場所を求めてアジアを歩いたことがある。(その時の旅日記) その時に思った。犠牲者は、自分の命を奪われることはもちろん怖い。同時に、家族や

      • フィリピンの偉大な政治家たち(フィリピン5)

        フィリピンには魅力的な政治家が多い。日本に帰る飛行機の中で久しぶりにNHKニュースを見ると、例の政治資金パーティ裏金問題で「知りません」「記憶にございません」「そういう認識はありませんでした」のオンパレード。まあ、誰が何と言おうと、選んだのは我々国民・・・・ というのはいいとして、フィリピンは、時に身体が震えるほどカッコいい政治家を輩出した。今回のフィリピン滞在でも、各地に立つ銅像を見て改めてそう思った。ここでは3人紹介します。 ニノイ・アキノ(Benigno "Nino

        • セブ島の戦争慰霊碑(フィリピン4)

          セブ島も先の大戦の激戦地だった。 今の私たちにとってはリゾート地だが、80年前は地獄だっただろう。 もちろん今、街中を歩く限り、戦争の傷痕は見当たらない。80年の歳月は、過去の悲劇を覆い隠すのに充分な長さかもしれない。 それでも、そこで命を落とした人たちにとっては、「忘れ去られる」ことが最も辛いはずだ。遺族の方々も、はるばる遠いセブ島までやって来て慰霊碑を建立した。今回、街中にあってアクセスしやすい2か所を訪ねてみた。 南方第14陸軍病院関係者慰霊碑 最初に訪ねたのは第

        2024年春、奈良の桜と「西行桜」

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          9本
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          1本

        記事

          セブ空港の素敵なおばさん(フィリピン3)

          セブ島からマニラに行くフライトは夕方だった。そのため、少し早く空港に着き、荷物を集めてマクタン島で遊ぼうと思った。 第1ターミナル(国内線)の手荷物預かり所に行った。すると、受付のお姉さんに「セキュリティチェックが必要だから係員が来るまで待って欲しい」と言われた。 しかし、係員が来ない。待っても待っても来ない。いつの間にか後ろに行列ができてきた。みんなイライラしてクレームし始めた。「なんでセキュリティチェックなんて必要なの?飛行機に乗るわけではないし」「セブ島の残り時間を

          セブ空港の素敵なおばさん(フィリピン3)

          歴史と信仰ーセブ島にて(フィリピン2)

          セブ島に到着 羽田からマニラ空港に到着、すぐにセブ島行きの国内線に乗り継いだ。 この空港は、ターミナル間移動が非常にめんどう。 そのため、可能ならば、同じターミナル内で乗り継ぎたい。 ANAは第3ターミナルに到着した。 そしてセブまでは、やはり第3ターミナルから発着するセブ・パシフィック航空を選んだ。これでターミナル間移動の手間が省ける。 入国審査を終え、国内線の出発ゲートに向かうと、ローカルの空気で満ち溢れてきた。 いよいよフィリピンに来た実感。沖止めの飛行機に乗り

          歴史と信仰ーセブ島にて(フィリピン2)

          コレヒドール島訪問(フィリピン1)

          2024年3月、フィリピンを訪ねた。この時に見たことや感じたことを記録していきます。 機上から見えたコレヒドール島 羽田空港で乗ったANAは、4時間ほど経つとルソン島上空を飛んでいた。1年ぶりのフィリピンだ。ゆっくり高度が下がってきた。まもなくマニラ市街が見えるだろうと楽しみにしたのだが、雲が多く、スモッグも強かったので、街並みははっきり見えなかった。 飛行機はマニラ上空を過ぎ去ってマニラ湾に出た。そして180度旋回してマニラ空港に機首を向けた。その時、下を見ると、雲の

          コレヒドール島訪問(フィリピン1)

          山形県酒田の即身仏を拝してきました

          山形県酒田市にある砂高山海向寺。 お寺の方に声をかけると、厳重なつくりのお堂の扉を開いてくれた。 大きな厨子が二つ並んでいた。 お寺は真言宗なので「南無大師遍照金剛」と唱えつつ、厨子を開いていただいた。 やまがた「酒田さんぽ」にある海向寺のウェブサイト 左側は、1775年に入寂された忠海上人。58歳のお姿である。 右手は圓明海上人(入寂1822年)。こちらは少しお若く55歳。 お二人ともこの海向寺のご住職だった。 即身仏を拝する時、最初は「怖いのかな」と少し緊張した

          山形県酒田の即身仏を拝してきました

          36年前のJAL123便墜落事故をテレビ特集で見て思い出した父のこと

          数日前、久しぶりにJAL123便の墜落事故の特集がテレビ(ザ・仰天ニュース)でやっていた。 墜落したのは1985年8月12日。阪神の日本一と同じ年なので覚えている。JAL123便は、午後6時12分に羽田空港を離陸して伊丹空港を目指した。 この時、私の父は東京に出張中で、この日に帰ってくる予定だった。 私は小学校6年生だった。夏休みで家にいた。昼過ぎに父から電話がかかってきて、「飛行機に乗るから今日中に家に帰る。JALの123便に乗るから」と言った。 123と覚えやすかっ

          36年前のJAL123便墜落事故をテレビ特集で見て思い出した父のこと

          平敦盛の五輪塔の前で考えたこと

          須磨・一の谷古戦場跡に立つ敦盛塚 源平合戦の中で最も有名な合戦のひとつ、須磨一の谷。 「敦盛最期」の舞台もここだった。 敦盛の五輪塔に近づくとその大きさに圧倒される。 なんと高さ約4メートル。中世の五輪塔としては全国2位の高さらしい。 場所は山と海に挟まれた狭い位置にある。目の前は国道2号線とJR山陽本線。裏は山陽電車が走っている。まさに要所であり、ここが封鎖されたら東西交流が不可能になる。 敦盛の五輪塔は室町末期から桃山時代に立てられた。江戸時代の参勤交代もこの前で

          平敦盛の五輪塔の前で考えたこと

          吉野山の体験修行で考えたこと(「食事作法」の思い出)

          吉野の思い出  吉野は、これまでずっと自分の中にあった。  子どもの頃、夏休みや冬休みになると、今井町にあった母の実家に帰省した。これが心から楽しみだった。  夏休みには、叔父が私をバイクの後ろに乗せて、吉野川に連れて行ってくれた。アユの友釣りや、川辺のキャンプに明け暮れた。  今、すでに今井町には母の実家はない。叔父も数年前に他界した。私は今は神奈川県に住んでいるが、年に2~3回は吉野を訪ねる。わざわざ訪ねてしまう自分がいるのだ。 吉野山でしばしば出会う人たちとの会話

          吉野山の体験修行で考えたこと(「食事作法」の思い出)

          奈良の東大寺と「海ゆかば」

          すっかり賑やかさが戻った奈良で思ったこと コロナが終わり、奈良市内にはすっかり観光客が帰ってきた。東大寺や興福寺もすっかり賑わいが戻った。それにしても人が多すぎる!という人は多いけど、私のように、たまにしか奈良に立ち寄らない者にとっては、賑やかな奈良は決して嫌いではない。 奈良は確かに海外からの観光客が多い。しかし、京都や大阪からの日帰りルートのようだ。最近では、特にJR奈良駅周辺にホテルがたくさんオープンしているし、夜もそれなりに居酒屋も開いているので、ぜひ宿泊して欲し

          奈良の東大寺と「海ゆかば」

          親鸞が見た常陸国の光景―茨城県で考えた

          1.親鸞を訪ねてきた常陸の人たち  親鸞聖人の言葉を弟子唯円が記録した『歎異抄』。文章のどこを取り上げても有名な節が並んでいるが、その中でも「おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」は、人の動きを感じることができて当時の姿が目に浮かぶ。  親鸞と会うために、過酷な旅を経て京都までやってきた。彼らはおそらく常陸国(今の茨城県)から来た人たちだろう。親鸞は40代から60代を常陸で過ごした。その時

          親鸞が見た常陸国の光景―茨城県で考えた

          行き暮れて・・・亡き後に姿を見せた平忠度

          行(ゆき)暮れて 木(こ)の下陰(したかげ)を  宿とせば 花や今宵の 主(あるじ)ならまし 平忠度(たいらのただのり、平清盛の母親違いの弟、1144-1184年)の辞世の歌である。この歌を口ずさむたびに、私はいつも、子供の頃に味わった記憶がよみがえる。 家の周りは田畑が広がっていた。 いつも何キロも歩いていた。家に到着する前に暗くなることもあった。 この時の寂しさは今も覚えている。 暗闇のなか、他人の家の明かりが見えた。明るく光る窓には家族だんらんの姿が映っていた。しか

          行き暮れて・・・亡き後に姿を見せた平忠度

          奈良・下市ー『歎異抄』を著した唯円終焉の地

           親鸞(1173-1263年)の言葉が書き留められている『歎異抄』。明治時代に入るまでほとんどの人の手に届くことはなかったとされている。しかし明治以降、『歎異抄』とともに人生を歩んだ人は多い。どれほどの人が『歎異抄』に心を支えてもらったのだろう。  『歎異抄』の筆者は唯円(1222-1289年)。彼の人生は謎が多い。常陸国(茨城県)に生まれ、若い頃は非常な乱暴者であったようだ。親鸞と出会って弟子となり、共に上京する。親鸞が亡くなると、故郷に戻り唯円房道場を開く。今の報佛寺(

          奈良・下市ー『歎異抄』を著した唯円終焉の地

          當麻寺で日本人の死生観を考えた

           私の母の実家があった今井町の西に立つと、遠くに二上山がよく見える。母方のご先祖が眠るお墓からも二上山がよく見える。    奈良に住む人々は、飛鳥に都があった頃から、二上山を毎日見ていたのであろう。そして、毎日、二上山の向こうに沈む夕日を見ていたに違いない。  中将姫(747年生まれ)もその一人であっただろう。彼女は継母に虐げられ、命も狙われるなど、この世の苦しみを一身に背負い、二上山の山麓にある當麻寺で出家した。そして29歳でこの世との縁が尽きる時、二上山に沈む夕日の中か

          當麻寺で日本人の死生観を考えた