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平敦盛の五輪塔の前で考えたこと

  1.  須磨・一の谷古戦場跡に立つ敦盛塚

源平合戦の中で最も有名な合戦のひとつ、須磨一の谷。
「敦盛最期」の舞台もここだった。
敦盛の五輪塔に近づくとその大きさに圧倒される。
なんと高さ約4メートル。中世の五輪塔としては全国2位の高さらしい。

場所は山と海に挟まれた狭い位置にある。目の前は国道2号線とJR山陽本線。裏は山陽電車が走っている。まさに要所であり、ここが封鎖されたら東西交流が不可能になる。

敦盛の五輪塔は室町末期から桃山時代に立てられた。江戸時代の参勤交代もこの前で一礼するのが礼儀だったとか。

近くで見るとその大きさに圧倒される敦盛五輪塔。

2.平家物語「敦盛最期」

あまりにも有名な「敦盛最期」であるが、ここで再度振り返っておく。

戦いの帰趨が決まったころであった。波打ち際を見ると、見事な鎧を付けた将軍が逃げようとしていた。これを見た猛将・熊谷直実が呼び止めた。組み討ちとなったが、直実の敵ではなかった。組み伏せて顔を見ると、敵は自分の子供小次郎ほどの若者であった。しかも容顔まことに美麗であった。

直実は考えた。この若者の首を取っても戦の趨勢は変わらない。命は助けてあげたい。しかし若武者は「自分の首を跳ねて人に見せよ」と覚悟を見せた。

周りに源氏の武将が集まってきた。直実は「お助け申したいと思うが、もう逃げられはしない。他人の手にかけるより、私が自ら手にかけ、後に冥福をお祈り申し上げましょう」と言って、その首を取った。

この時代、身分ある敵を倒した際には、敵の鎧直垂(鎧の下に着る着物)を切り取って首を包むのが礼儀であった。そこで直実も鎧直垂を切り取ろうとした。この時、敵の腰に錦袋に入った笛を見つけた。これで敦盛と分かった。

敦盛が見る光景。目の前は国道2号線とJR山陽本線。その向こうは瀬戸内海。源氏から逃れて渡ろうとした海を死後も見つめている。

3.熊谷直実のその後

平家物語の記述はここで終わる。しかし直実はその後も生きる。彼は法然に弟子入りし、出家して蓮生(れんせい)と名乗る。

しかし、専門家の本を読むと、直実が出家したのは敦盛の菩提を弔うためではなさそうだ。伯父との土地争いに負けたことや、鶴岡八幡宮の流鏑馬で「的立役」(射ち落された的を建て替える係)に指名されたことに不服で源頼朝に従わなかったことなどが原因らしい。どうも武士として行き詰ったようだ。(高橋修『熊谷直実―中世武士の生き方』(吉川弘文館、2014年)。

直実は、敦盛の他にも多くの人を殺していた。武士であるから仕方がない。しかし、たとえそうだとしても、人の命を奪うことに呵責がないはずはない。出家するとき、「手足も切り命を捨てても後生は助からない」と思い詰めていた。法然の「罪の軽重を問わずただ念仏すれば往生する」という言葉に、直実はさめざめと泣いたという。

4.蓮生法師としての生き方

熊谷駅前の熊谷敦盛像。扇を振って敦盛を呼び寄せる姿。呼び寄せなければ良かったのに。直実は自分のこの像を見て苦笑しているだろう。

直実は出家して蓮生となっても、剛直な性格は武士のままだった。仲間の僧侶の念仏が生ぬるいといって叩き、法然が咎めることもあった。また、法然が九条兼実に講義をしていた時のこと。身分の高い兼実との同席を許されなかった直実は、部屋の外で待機した。しかし師・法然の声が聞こえないので、「穢土ほど悔しいところはない。極楽にはこんな差別はない」と大声で叫んだ。そこで兼実は座敷に招き入れたが、直実は挨拶もせずに師の話を集中して聞いたという。

蓮生の生き方を示す話はまだある。有名なのは、阿弥陀如来がいる浄土の方向(西)に背を向けなかったことだ。馬が東に向かう時には後ろ向きに座った。その姿は「蓮生東行逆馬図」という絵に描かれている。さすが坂東武者、出家後も徹底していた。剛直で曲がったことが許せない頑固な性格だが、どこか人間臭い。

5.直実、敦盛と再会する(能「敦盛」の世界)

須磨海岸。この地で激闘が繰り広げられたのだろう。


蓮生法師は、自ら殺めた敦盛と再会した。場所は須磨一の谷。この地で笛を吹く草刈男たちと出会った。その中の一人が「自分は敦盛の所縁の者」と名乗るので、蓮生は念仏を唱えた。すると若者は、「どうか見捨てないで欲しい。念仏は一声だけで充分なのに、あなたは毎日念仏を唱えて弔ってくださる。まことにありがたい」と言った。そして「私の名前を言わずとも、私が誰か明らかでしょう」と告げて消えていった。

そして夜更け、今度は鎧姿の敦盛が現れ、生前の行いによる苦しみを晴らしたいと告げる。蓮生は、「阿弥陀仏を唱えると罪障は消滅する。私は絶えず念仏を唱えて貴方を弔っている。だから貴方には苦しみなどないはず」と告げた。

こうして生きている時は敵同士だった二人は仏の道を歩む友となる。敦盛は、「悪人の友を振り捨てて 善人の敵を招け」というが、それは貴方のことだ、ありがたいと感謝を繰り返すのであった。

6.能「敦盛」の真意を考えてみた

敦盛は直実に命を奪われた。しかし、直実の念仏で成仏できた。そして直実自身も、自らの念仏で救われた。

敦盛が成仏できたのは、自分を殺した直実を許したからであった。殺されても敵を許す。これは、当時の武士の理想だったのではないか。なぜなら、自分を殺めた敵を許さない限り、死後も苦しみが続くからである。しかし、自分を殺した敵を許すことなどは容易ではない。

戦場に赴く武士は死を覚悟していた。当然であろう。戦場で自分だけが助かる道理はない。しかし、死ぬことは怖くなくても、死後の世界は怖れていたようだ。当時の人々にとって、人間は「死ねばおしまい」ではない。浄土に辿り着けなければ、死後も苦しみは続く。戦いと苦しみが絶えない修羅道に堕ちるかもしれない。

死後に救われるには、自分を殺した敵を許すしかない。しかし、これは難しい。自分を殺した敵を許すことなどできない。敦盛は許した。直実が日夜念仏を唱えて敦盛の菩提を弔っていたからである。

つまり能「敦盛」は勝者・敗者の双方に戦後の心得を説いている。殺された側は敵を許す大切さを、そして殺した側は敵を弔う大切さを説いている。たしかにこれは無理難題である。しかし、念仏が解決した。念仏によって敦盛も直実も救われた。この二人の姿は、武士にとっては、殺生から逃げることができない自らの慰めではなかっただろうか。

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