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親鸞が見た常陸国の光景―茨城県で考えた

 
1.親鸞を訪ねてきた常陸の人たち
 
 親鸞聖人の言葉を弟子唯円が記録した『歎異抄』。文章のどこを取り上げても有名な節が並んでいるが、その中でも「おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」は、人の動きを感じることができて当時の姿が目に浮かぶ。
 
 親鸞と会うために、過酷な旅を経て京都までやってきた。彼らはおそらく常陸国(今の茨城県)から来た人たちだろう。親鸞は40代から60代を常陸で過ごした。その時の信者だと思う。
 
 茨城から京都は遠い。ましてや、今から800年前である。

 その過酷さは想像するしかない。よほど思い詰めていたのだろう。

 親鸞に会いに来た理由はおおよそ察しが付く。親鸞に賜った念仏の教えに疑問が生じたのである。日蓮の念仏攻撃は激しかったし、親鸞の息子・善鸞も人々を惑わすことを語っていた。この点は研究者や様々な作家・評論家が実にたくさん論じているので省く。
 

「稲田の御坊」西念寺の参道と山門。参道沿いの木々は800年前に親鸞の体温を感じたはずだ。


2.昔の常陸の国を想像してみた

 最近、ふと気づいた。関西に生まれ育った私は、歎異抄のこの一節を読む時、知らず知らずのうちに、親鸞と一緒に京都にいるつもりになっていた。つまり、「身命を顧みず」に常陸国から訪ねてきた人を迎える側の気持ちで読んでいた。遠い京都まで訪ねる人々の立場なんて考えたこともなかった。
 
 常陸国と言えば今の茨城県だ。私には本当に縁がない地域だ(私にとって、という意味です・・)。そもそも2度ぐらいしか行ったことがなく(というか通過しただけ)、具体的な想像もできない。したがって「都道府県の魅力度ランキング」のような東京人が作ったメディアに強く影響され、隣の北関東3県の中で常に最下位争いをしているイメージが強かった。さらに、茨城の人は閉鎖的で排他的でよそ者を嫌うという噂も良く耳にする。

 現在のこんな評判に頭を奪われた私は、800年前の茨城県などは、もっと人が少なく、寂しく、人々は排他的で、よそ者には冷たいところだと勝手に想像していた。そして、なぜ親鸞はこの地に20年もいたのだろうと疑問に思っていた。
 
3.北関東を訪ねてみた

 先日、北関東を訪ねてみた。どこにいっても、現地の人々は「よそ者」の私にとって親切だった。そしてよく話してくれた(もちろん、もし住むことになったらまた違う印象かもしれないが)。凛とプライドが高く、遠くから訪ねてきた私たちを歓迎してくれた。

 想像するに、北関東3県が魅力のない地域と言われるのは、高度経済成長時代に、人や産業が東京に吸い取られたからであろう。それまでの日本は、今のような「中央集権」でもなければ「過疎」に悩むこともなかった。今は圧倒的な求心力を誇る東京も、そもそも開発が始まったのは徳川家康以降であり、親鸞の時代には沼地が点在する広い空き地に過ぎなかった。 

 親鸞の時代の常陸国は豊かな地域だった。明治、大正、昭和に入っても、地味は豊かで自給自足ができた。そのため、満蒙開拓へ向かう人もほとんどなかった。その意味で閉鎖的といえば閉鎖的かもしれない。

 現地で様々な方々からお話を伺い、その結果、以上のようなことを考えた。そして、これまでの私の茨城県に対するイメージを根本的に修正しなくてはならないな、と反省した。「なぜ親鸞はわざわざ寂しい常陸国に来たのか」という問いは、そもそも前提が間違っていた。他国と比べて突出しているとはいえないにしても、当時の常陸国は豊かだったのだ。
 

西念寺。訪ねた時は大雨だったが、それもまた風情があった。


4.常陸国を目指す親鸞

 1207年の「承元の法難」により、親鸞は師匠の法然とともに流罪とされた。命令を下したのは後鳥羽上皇だった。熊野御幸の最中、二人の女房が法然の弟子の説法を聞き、そのまま出家してしまったからである。これに怒った上皇は。法然の弟子二人を処刑し、念仏停止を決め、親鸞達を追放した(諸説あり)。

 親鸞は越後で罪を許されたが、京都には戻らず、妻の恵信尼と幼い子供二人と一緒に関東を目指した。いくつかの場所で草庵を結び、常陸国の「稲田の草庵」に落ち着いた。

 常陸国に来たのは、法然亡き後の京都に帰る気がなかったこと、比叡山・興福寺などの念仏批判が強かったこと、新たな地で挑戦したい気持ちがあったことなど想像できる。しかし決定的な理由は、稲田の地を治めていた領主稲田頼重の温かい援助があったからであろう。
 

親鸞を殺そうとした山伏弁円の回心の桜。
「山も山道も昔に変らねど 変り果てたる 我が心かな」弁円の詠歌だと言われている。


5.稲田の草庵
 先日、稲田の草庵であった西念寺(茨城県笠間市)を訪ねた。今の国道50号線沿いで、昔は下野国(今の栃木県)と常陸国を結ぶ交通の要所だったことが分かる。笠間市の中心地から少し離れたところにあり、もともとは豪勢を誇った笠間神社の敷地であったようだ。

 低い丘の高台に位置する西念寺を訪ねると、境内にある多くの巨木に驚く。このうちの何本かは親鸞を見たに違いない。ご本堂の前には珍しい「お葉付きイチョウ」があった。「親鸞聖人御手植え」とあった。

 ご本堂にお邪魔し、念仏を唱えさせていただいた。堂内には親鸞を殺そうとしたが、その神聖な佇まいに帰依してしまった山伏の弁円が、長刀を親鸞に突き付けている様子を書いた絵があった。この二人の運命的な出会いもまさにこの稲田の草庵だった。

 お寺の方から色々教えていただいた。『教行信証』はここで52歳で書き上げた。隣接する笠間神社には仏典が多く所蔵されていたこともこの地で『教行信証』を書きあげた理由であった。

 それにしても、親鸞はこの地でどんな景色を見たのか。五木寛之の「親鸞」には、あれほど好きだった筑波山が見えないという一節があったが・・たかだか数時間の滞在では到底想像もできなかった。
 

報佛寺。歎異抄を読む会なども定期的に行われているとのこと。いつか行きたいと思うけど・・・水戸は遠い。


6.河和田の唯円

 水戸市河和田に報佛寺がある。ここは歎異抄を書いたと言われる親鸞の弟子唯円(河和田の唯円)が開基のお寺だ。こちらでも色々お話を伺い温かく接して頂いた。茨城県の人々は親切で優しい。

 このお寺は1689年に、水戸藩第2代藩主の徳川光圀が、近くにあった唯円時代の念仏道場をここに移転して再興したと言われている。廃仏毀釈が激しかった水戸藩内で大事にされた理由はいまいちよくわからない。

 出家前の唯円は平次郎といった。非常に気性が荒かったらしい。ある時、妻が、親鸞から頂いた手紙を大事にしているので、恋文だと勘違いし、切り殺してしまった。しかし、妻を家の裏に埋め、家に帰ると妻がいつものように出迎えた。そこで驚いた平次郎は、妻を埋めた場所を掘り返した。すると、妻が親鸞からもたった手紙が出てきた。その手紙は恋文などではなく、阿弥陀仏の名前を書いた「十字名号」が書かれていた。

 これで平次郎は親鸞に帰依したといわれている。報佛寺には「十字名号」の石碑が立っていた。
 

唯円道場伝承地。この青い空の下でみんな念仏を唱えていたのだろう。


7.唯円道場伝承地

 翌日、唯円道場伝承地にいった。昨日までの大雨と違い、この日は素晴らしい秋晴れだった。天が高かった。唯円道場伝承地と言われている場所は、報佛寺から水戸バイパスを挟んで南側に行った畑の中にあった。かつてはここで唯円が自らの弟子を集めたのであろう。

 畑の中に一か所、木が生い茂っていた。大きな石碑が建っていた。しかし、そこに辿り着くのが一苦労だった。高い草で覆われており、とても歩いて行けない。周囲を歩き、民家の庭をお邪魔し、なんとかたどり着けそうなあぜ道を見つけ、歩いて向かった。そして、やっと田の中にポツンとある唯円道場伝承地にたどり着いた。しばらくすると、街の喧騒が消え、確実に唯円や親鸞がいた時代と同じ秋の空気に包まれる実感がした。空が青く高かった。きれいな秋晴れだった。

 ふと気づいたが、秋の常陸国は空が広く高い。そして空気が澄み切って美しい。この青い空の下で、親鸞や唯円、そして同朋達が、念仏を唱えていたのだろう。青空の下の念仏などは、京都や奈良ではあまり考えられないのではないだろうか。

 空を見ていると自分も吸い込まれそうに感じる。そこで少しわかった気がした。親鸞も唯円、そしてこの地で念仏を唱えていた人たちは、この青空を仰ぎ、青空の下で念仏を唱え、宇宙と一体になる感覚を得たのだろう。親鸞が常陸国で見た光景に、この青空があったに違いない。
 

唯円道場伝承地。ここは行きづらい。まわりは背の高い草が生い茂っている。蜘蛛も多い。私が行ったときは秋らしくトンボがたくさんいた。

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