僕のちょっとした経歴
最近、ゴミ収集の仕事をしていた、保育園の園長をしていた、など、僕の過去の仕事についての回想をアップしているが、フリーの映像ディレクターをやっていたり、この人はどんな人なんだろうと、疑問や不信に思っている方もいると思うので、波乱万丈の僕の人生、現時点からさかのぼって、少し経歴をご紹介させていただきます。
今は高齢者の方のご自宅に
お弁当を宅配する仕事をしている。
この仕事は求人誌で見つけて、
なんとなくピンと来て応募したら
即採用された。もうすぐ始めて一年になる。
この仕事に就く前は
合志マンガミュージアムという、
マンガ専門の図書館で
所蔵マンガのリストを作成する仕事をしていた。
この仕事はクママンという、
「熊本を日本一のマンガ県にする」
という立派な目的を掲げている組織の
代表者の方から僕のマンガに関する知識が
評価されて請われて就いた仕事だ。
しかし実態は合志市という、
熊本でもかなりの田舎にある施設で、
そこの職員は結局ほとんどは、
田舎の公務員あがりの人ばかりで、
マンガ文化に理解のある人など皆無であった。
僕は契約期間の一年間の間、
片道一時間かけてこの施設に通っていたが、
結局一人も友人や仲間はできず、
契約期間終了と同時に解約されて次の仕事の話もなかった。
まあ実は阿蘇の高森町の町役場が、
マンガミュージアム建設に乗り気だという、
不確定な情報のみが存在していて、
僕はその話を信じて何度か高森町に足を運び、
住むための町営住宅の下見をしたりしていたのだが、
結局町役場の人と会って話をしたら、
「前任者が何と言っていたかは知りませんが」
というようなあいまいな対応でお茶を濁された。
僕はこの町役場の人が
「しばらく待ってください」と言ったので、
ちゃんとした就職をすることもできず、
とりあえず2ヶ月ほどレンコン堀りのバイトなどをしながら待ったが、
このバイト先の農園の経営者の態度などから、
熊本の社会の末端で暮らしている人の認識の低さを痛感した。
その待機期間中に八代市のケーブルテレビの会社の面接にも行ったが、
履歴書や面接内容には一切問題がなかったのに、
なぜか結果は「不採用」であった。
以前福岡県の春日市にある、
ケーブルテレビの会社に面接に行った時も、
面接した幹部は即採用と言ってくださったのに、
結局現場で働いている人から、
「キャリアがあり過ぎるので一緒にやりにくい」
というクレームが来て、
採用が延期になり、最終的にはその会社で働くことはなかった。
おそらくこの時と同じようないきさつだったと推測している。
ちょっと話が脇にそれてしまったが、
マンガミュージアムに勤める前は、
ゴミ収集の会社にいてゴミ収集の助手をしていた。
これはそのゴミ収集の会社に
住宅営繕の部署もあって、
うちの実家の不動産屋が、
ちょっとした営繕の仕事を出していたので、
そこで住宅営繕の仕事を覚えて、
実家の不動産屋を手伝って欲しいという話から始めた仕事だったが、
結局1年間ゴミ収集の助手をさせられ、
同じゴミ収集車に乗っている人から、
仕事の途中の会話の中で僕が、
大学を出ているということを話したのをきっかけに、
あれこれと陰湿な嫌がらせを受けるようになり、
僕は結構我慢していたが、ついに我慢の限界が来て、
「いい加減にしろ」と怒鳴り返したら、
その人が逆ギレして殴りかかってきて、
僕は青あざを作るような怪我をして、
その日を境にその人は職場から姿を消し、
僕はその後の会社の対応に耐え切れず、
ついに自分から会社を辞めた。
結局僕に殴りかかってきた人の学歴は中卒で、前科もある人だった。
その前は電気工事の会社にいました。その会社に所属した理由はこのようなものです。
約6年前、僕は福岡から熊本に引っ越しました。引っ越す直前の仕事は自分で開設した保育園の園長でした。ここからはダイジェストになります。
待機児童の問題に心を痛めていた僕は自分で保育園を開園して、待機児童問題に少しでも貢献したいという高邁な理想を持っていましたが、現実的には既得権益の壁に阻まれ、保育園は毎月赤字を出し、1年で閉園せざるを得ませんでした。そんな時、ちょうど熊本の奥さんのお義父さんが亡くなり、沖縄で勤めていた奥さんが熊本に帰って実家の不動産屋を継ぐことになったので、ちょうど保育園を閉園した僕も一緒に熊本に行って熊本で暮らすことにしたのです。
そして熊本で実家の不動産屋を手伝うため、とりあえず住宅営繕の部署のあるゴミ収集の会社に面接に行きましたが、そこの社長は僕の経歴を見て、うちでは雇えないと判断して、熊本市の職業訓練の施設に通うようにと勧めてきました。そこはポリテクセンターというところで、どこの県にも同様の施設はあると思います。
僕はポリテクセンターに所属して、半年間の授業を受けることになりました。その期間の最中に熊本地震が起きたのです。熊本の街はかなり破壊され、復興への気運もものすごく盛り上がっていました。僕もじっとしてはいられず、ポリテクセンターに来ていた求人に応募して電気工事の会社に所属したのです。
結局当時50歳だった僕は、26歳の電気工事士の下に付くことになり、新築アパートの電気配線の仕事から覚えはじめました。しかしその先輩工事士は僕を敬遠して、ほとんど仕事の段取りを教えてくれず、作業に出勤する日も自分は休みをとり、僕に一人で作業をさせたりしました。
僕はその状況下で3ヶ月ほど我慢して仕事しましたが、現場で一緒に働く大工さんや他の会社の電気工事士さんに迷惑をかけたり、怒鳴られたりすることが多発し、ついに会社に苦情を言おうと電話したら、会社の事務の人は「それなら辞めますか?」という対応だった。それで辞めました。
ここまでが僕の熊本での経歴のほぼ全部です。その前に福岡編、愛媛編、東京編などがありますが、今日はこのくらいで。