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研究を身につけるほど、人間から離れていく

正しい方法で勉強して、正しい方法で考えると、次第に「普通」ではなくなる。そもそも「普通」は大多数のことで、自然体で生きているだけで社会的に適応的な範囲(としている)。


正しく勉強すると、単純に知識が増える。知識が増え過ぎると、知識を共有できる人が極端に減る。マニアックすぎて、共感を生むことはない。極端なオタクにも共通していることだと思う。そこまで行くと同程度か自分以上に詳しいヒトでないと会話にならない。詳しくない人との会話は布教か講義になる。そうなるともう会話ができる相手ではなくなる。会話という相互の営みはどこにもない。一方的な関係になってしまう。

そう、知識の範囲には心地のいい重複が必要なのである。

基本的に、知識の多寡については、個人差がある。自分の方が詳しい話題があれば、他人の方が詳しい話題もある。そこのどんな風に重複とズレがって、見事な広がりを見せてくれるか、が重要になる。特に勉強が好きな人にとっては、知的好奇心を刺激してくれる話題が欲しいので、相手がどれだけ自分の興味ある範囲で、自分の知らないことを知っているかが重要。一方で相手にとって自分が価値あるようになるには、相手が知らないことを知っていなくてはならない。どちらかの勉強が捗り過ぎると、知識に重複がある状態から、一方が完全に内包される状態に変わっていく。そこまで来たら2人の関係は終わりを迎える

研究するとなると、特定の分野については極端に詳しくなる。一方で他の領域になんて関わっている時間は全然ないから、全くもって詳しくない。そうすると、他人と心地いい知識の重複を得ることが難しくなる。楽しく会話できる人間が、徐々に減っていく。


正しく考えると、判断をすることが減る。「わからない」ことが増える。単一の事象には、再現性もないし、普遍性もない。因果関係を容易に見定めることもできないので、特定の事象が発生していても原因を特定することが困難になる。だから何かが起きた時に言えるのは、「原因としてはあれやこれが考えられるが、実際は別かもしれないし、わからない。」ということになるだろう。

こうやって考えるのはとても労力がかかる。ヒトは基本的には、バイアスやヒューリスティックで「てきとう」に意思決定をしているし、間違った原因に帰属させることもとても多い。特に自分の思考を、正しく思考できているのかモニタリングするのはとても難しい。一方で、他人の思考は岡目八目で、簡単に正しくない思考を見つけられる

この他人の正しくない思考を見つける技術は、日常会話ではかなり邪魔になる。日常では、とりあえず共感してほしくて自分の考えを口走ることが多いから、おかしい点を見つけたって、なるほど・そうだね、って言うのが模範解答である。ちょっと違うんじゃない、と言おうものなら、面倒なやつになってその人との会話はもう行われないだろう。
(そんな奴は願い下げ、といえばそこまで。)

すぐに、あれはこういうことだね、と早合点されるのも、困る。それは違うと思うんだけど、違うと言いにくい。早合点が数回なら、訂正・補足でなんとでもなるが、何度も繰り返されると、この人は正しく理解できないと判断してそれ以降相手にしたくなくなる。


元々、タイトルのフレーズは、よびのりさんところの動画から引っ張ってきたんですけどね。https://www.youtube.com/watch?v=NFXSPM7ojqs

一般的には、研究は孤独だ、と言われる話にすぎない。そのうちの一つの側面。

とはいえ、リアルな実感は、研究からではなくて、趣味からだった。
一緒に何かおいしいものを楽しんでいた人が、色々勉強していくうちに、知識の重複が心地良くなくなってきて、一緒に楽しめなくなったことがあって。あるいは、囲碁とか実力主義のゲームだと、レベル差が広がると疎遠になっていくのは良くある。

本当は、コミュニケーションにおける、知識の共有の話題なのかな。

ともかく、人間であるうちに、「普通」であるうちに、人間関係の基礎を構築するか。人間をやめてから、人間をやめた人とだけ関わるのかを、考えないといけないんだろうな。それでも心地のいい知識の共有は諦める必要がある。他人との会話はどんどん心地悪くなる。終わりはない。

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