見出し画像

ドタバタ米国留学記 #番外編 

1998年、24歳でロサンゼルスの語学学校へ留学した時のたった16週間に起きたおもしろエピソードをたっぷりと綴った『ドタバタ米国留学記』の、その後。

ロスに遊びに行く

短期語学留学をしたワタシは、5月入校9月帰国という16週間のプランでしたが、留学先で仲良くなった友人たちのほとんどは長期プランだったので、彼らは12月に語学学校を修了しました。
その後は、帰国するっていう人の他に、アメリカの大学に入学が決まった人もいる、なんていう話をワタシは日本で聞いていて、それぞれの道に進んでいく様子に感慨深いものを感じていたんですけど、仲が良かったナッシュ、ケン、ナオがアメリカで大学に通う事になったと聞いた時はうれしかったです。
皆努力家で、目標に向かって頑張っている姿を見ていたので、すごくホッとしたんですよ。

帰国したメンバーとも連絡を取り合い近況報告をしたり、実際に再会したり、留学先での出会いが縁となって、その後のワタシの人生にも大きく影響することになるんですが、ひとまず、留学終了後にロスに住むケンの家へ遊びに行った時の話をしたいと思います。

その時のワタシは結婚していたんですけど、夫の許可を得て1週間ほどロスへ行かせてもらえることになりました。
滞在先は友人宅ということで航空券のみを購入すればよく、成田 ⇄ LAX の往復航空券がたしか格安で3.5万円くらいだったと記憶しています。
今では信じられませんけど、すごく安かったんですよ。
当時は『燃油サーチャージ(燃油特別付加運賃)』なんてなかったですし、渡航費用は、空港までの交通費+航空券代+空港使用料と、ロスでの生活費 (200ドルくらい) だったので、合計6万円ちょっとで行けました。
この時期は1ドル110円とかだったと思います。
ちなみにその後、1ドル100円を割るんですが、その頃からちょいちょい円をドルに替えて持っていましたね。いつでもまた、ひょっこりロスへ遊びに行かれるようにと、数千円貯めてはドルに替えて、気づいた時には500ドル超え。
円が120円台になった時に日本円に替えちゃいましたけど、我ながら良い判断だったと自負しています。


で、いざ、シンガポール航空でロスへと向かうことになりました。
座席は、やっぱり二人席の窓側です。
この時の航空機は最新型だったのか、座席に個別のモニターがついていてテンションが上がりましてね。
今では各座席にモニターが付いているのが普通ですけど、当時は違いましたから、そりゃもう大感激でしたよ。
しかも、リモコンの形がこんな風に

ゲームのコントローラーっぽいので、「これは何かあるはず」といろいろいじくると、『マリオブラザーズ』のゲームが入っていて、これまた大興奮です。
何度も言いますが、当時はすごいことだったんです。
音楽を聴く、映画を観る以外に、ゲームもできるとは!
ってな具合に。

で、離陸してすぐ、ずっとゲームしてました。
ゲームには興味がないのでゲーム機なんて持っていませんでしたけど、子供の頃に遊んだ『マリオブラザーズ』が妙に懐かしく手が出たわけです。
すぐに飽きましたけどね。
マリオブラザーズとパックマンと、あとなんか変なやつ?しかありませんでしたし、モニターが小さすぎて目が疲れちゃって、1時間くらいでギブアップでした。


ゲームで満足した後、映画を見ようと色々物色していると、隣の席の方から声をかけられます。

「アー ユー ジャパニーズ?」

「イエス」と答えると、「よかった〜日本の方で」と、隣に座っていたのがメガネをかけた若い日本人男性ということに、この時はじめて気が付きました。
隣に誰が座ろうと、動じなくなっているなんて。
留学へ出発する時の機内でオロオロしていた自分はどこへやら?
マジ、大成長ですよ。

で、ここから、想定外の空の旅がはじまります。
このメガネくん、とんでもなくよく喋るんだわ。

ワタシは映画が見たいので話半分でしか聞いておらず内容はよく覚えていないんですけど、彼もまた短期留学に行く&はじめての飛行機だったようで、ワタシにいろいろ質問してくるわけです。
ロスのこと、学校のこと、授業のこと、機内食や機内のトイレ、入国審査まで、ま〜聞いてくる聞いてくる。
希望に胸を膨らませているというより、不安で仕方がないという印象で、聞いてて疲れるというか、「じゃぁ、なんで行く?」と聞き返したくなるくらいちょいと勘弁状態だったので、「ゲームできるから、やってみたら」とゲームで遊ぶことをすすめ、「ワタシは映画観るんで」とその場を切り抜けました。
我ながらうまくやったと思ったのも束の間、すぐさま『トントン』と、ワタシの肩を叩くメガネくん。
画面を一時停止してヘッドホンをずらすと「これ、どうやって使ったらいいんですか?」と、ゲームのやり方を聞いてきましてね。

失敗した。
先に教えておくんだった。
いや、これくらい、わかるだろ?
わかれ。
わからんかったら、やるな。
ワタシは、君の連れじゃないんだよ。
隣に座っているだけの、赤の他人。
何かをしている人の邪魔をしちゃダメ。

心の中で呟きながらゲームの遊び方を丁寧に伝授し、それが終わってからの映画の見方まで説明してから、自分のモニター画面に戻りましたが、これは着陸まで気が抜けないと、この時小さく腹をくくりました。

ドリンクをもらう時も、機内食タイムも、彼の声が聞こえてきます。

楽しそうだな、君は。
君にとっては、隣がワタシでラッキーなのかもしれんけど。
隣の席が日本人だとこうなるのかと、こっちは今とてつもなく打ちひしがれているわけよ。
隣には誰もいないと思ってほしい。
そっとしておいてほしい。
あ〜、透明人間になりたい。

こんな思いは届くわけがなく、トドメが刺されます。
到着が近くなると配られる『税関申告書』と『出入国カード』の記入時のこと。

「これって、どうやって書けばいいんですか?」

な〜〜〜に〜〜〜〜〜〜?!

さすがにそれは、ダメじゃね?
書き方くらい、調べてこいや。
事前準備、しなさすぎ。
あれもこれも、どれもこれも、全然知らんのか?
おい、メガネ。
ええ加減にせぇよ。

心の叫びを飲み込むようにして大きく一息ついてから、書き方を教えてやりましたよ。
でも、どう考えても力になってあげられないことがありましてね。
それが、この欄

12:滞在中の住所(番地と通り)※滞在するホテル(名称)を記入
13:滞在中の住所(市と州)※滞在するホテルの住所(市と州)を記入
14:連絡先となる米国内の電話番号 ※滞在するホテルの電話番号を記入

「旅行じゃないから、ホームステイ先か学校の住所を書くんだよ」と言うと

「知りません」

は?
いやいや、これは、メモしておかないとダメなやつ。
なぜなら、これに記入しないといけないからね。
知らないなんて、怖すぎる。

「なら、学校の名前だけでも書いておいたほうが良いよ。目的は語学留学だから、そう説明して入学証明書見せるとか」

「証明書??」

ダメだこりゃ。

結局彼は、その欄を空白のまま飛行機を降りました。
ワタシはもう一度「何かしら記入しないと止められるよ」と、念を押したんですけどね。
案の定、入国審査のゲートで止められ、脇に弾かれてしまったようです。

あ〜あ。
だから言ったじゃん。

一応、声はかけました。
「どうしたの?」と。
すると、
「書いてない、ってことだと思います」と。

な。
そうだろ。

「とにかく、学校の名前と、for studying English って説明してね」とだけ言って、その場を去りました。
彼以外にも、同じ感じであろう数名の人が待機させられている。
『英語ができない日本人』の扱いは入国審査官も慣れているはず。
問題なし。
と判断したわけです。

で、ワタシは入国審査をすんなりクリアして到着ロビーに行きました。
「薄情なやつ」と思う方もいるかもしれませんが、実はこの時、飛行機の到着が1時間遅れていました。
LAX にはケンが迎えに来てくれることになっていたので、既に1時間以上待たせてしまっていて、連絡手段がない当時は到着ロビーに姿を見せることが最善の策だったため、とにかく急いでいたんです。

思ったとおり「すげ〜待った〜〜」と言われましたが、飛行機の遅れは仕方がないと理解してくれ不穏な空気にはならなかったものの、時間を要した一番の理由であるメガネくんの話をすると「え?アユミちゃん、見捨てて来たの?」とキツい一撃をくらい冷たい目で見られる、っていうね。

脱力感。

機内からずっと、すべてに全力で誠実に対応してきたつもりがこうなるのかと、なんか腑に落ちないというか、反論する気もせず黙ってましたけど、この時は「困った人を見捨てる冷たい女」という新しいレッテルが貼られたに違いありません。
かといって、態度を変えるようなことをしないのがケンですから、気を取り直してワタシ自身が名誉挽回に努めることにして、とりあえずメガネくんが無事に入国出来るよう祈っておきました。

シェアハウスに居候

そんなこんなで、ケンが住むシェアハウスに到着し、ワタシはそこで数日お世話になることになりました。
ケンとシェアしている2人のルームメイトは日本人だったので、言葉が通じることからコミュニケーションを取るのに問題はなくひとまず安心したんですが、一人がとんでもないパリピで、友達を呼んではどんちゃん騒ぎするんですね。
とても眠れたもんじゃなく、もう一人の日本人ルームメイトは夜ほぼ帰って来なくなったみたいなんです。
そもそも、リビングのソファをベッドとして借りることになっていたワタシの寝床がなくなっちゃうっていう、前もって事情を伝え了解を取りつけていたにもかかわらず友達呼んじゃう、みたいなことをするので、これにはケンも困ってうんざりしてましたけどね。
結局、パリピが騒いでいる日はケンの部屋で寝かせてもらったり、帰って来なくなったルームメイトが転がり込んでいる家に遊びに行ったりしてしのぎました。

滞在中の数日間はケンの友達も合流して一緒に遊び、黒人しか行かないようなソウルフードが食べられるお店や、ベトナム人街など、普通では行かれないいろんな所へ連れて行ってもらえて、すごく楽しかったです。

たまたま「アメリカにはシュークリームがない」っていう話になって、「ベトナムにはそれに似たやつがあるよ」っていうので、ベトナム系アメリカ人の男性が「食べに行こう」と連れて行ってくれたんです。
ベトナムのシュークリームは、見た目は日本とまぁまぁ同じですが平べったくゴツゴツした感じで、シュー生地は分厚くて硬くザックザク、カスタードクリームは普通にシンプルでしたが、全体的に粉っぽい印象でした。
「どう?おいしいでしょ」と満面の笑みで言われたんですけど、どう考えても日本のシュークリームの方が旨い。
とはいえ、ここはかどが立たないよう「想像よりおいしい〜」と応えておきました。

ロスに住んでいる留学時代の友達とも久しぶりに再会したりして、あっという間に時は過ぎ帰国となるんですが、最後の最後にケンからこんな話を聞きましてね。

「アユミちゃんが言ってた運転手いるじゃん。50ドルの、アイツ」
「あ〜あ〜、詐欺ヤローね」
「そう、アイツさ、事務局の女とグルだったらしくて、二人揃ってクビになったよ」

マジか。

忘れもしない、『50ドル案件』について記憶にない方はこちらをどうぞ ↓

なるほど。
いくら事務局へ行ったって、無駄だったわけだ。

どうやら、ワタシが騒いだのがキッカケで悪事が発覚した模様です。
いつからやっていたのかは不明ですが、他にもお金を巻き上げられた人は多数いたはずですから、クビになって当然ですね。
お金は返ってきたもののどこかしっくりこなかった、悔しさしかなかった思い出でしたが、ここにきてなんだか気持ちがスッとしました。

『言葉は山彦やまびこごとく、行動は振り子のごとし、すべて自分に返ってくる』

「いずれ報いを受けるはず」とは思いつつも、それを見届けることは出来ないだろうと考えていただけにこれには正直ビックリしましたが、深く納得させられる出来事があとからオマケのように付いてきたこの留学経験は、自身の言動を振り返るキッカケを与えてくれた貴重なものだったからこそ、鮮明に記憶が残っているのかもしれません。


この『ドタバタ米国留学記』を通じて、懐かしい友達から連絡も入りうれしい限りです。
スイス人のサシャが留学時の写真を送ってくれたり、ナッシュはメッセージをくれたり、記録として残しておきたいと書いたエッセイが、思わぬ形で大きな喜びとして自分に返ってきたことに驚いています。

最初から読みたい方はこちらから ↓



みなさまのご支援に感謝します。