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インスタント

人間は考える葦である。ーブレーズ・パスカルー

家の近くにあったショッピングモールが潰れ、閉館や閉店の文字がこの町でも多く見られるようになった。

その時代の移ろいに憂いているのは若さを語ることのなくなった世代だけで、若者はどこ吹く風といった具合でまるで気にも止めていない。

いや気がつくことが出来ていないというのが正確なところなのだろう。

「INSTANT」

通学路を行く学生のカバンは毒々しい輝きを放つ文字をぶら下げている。

以前は合法か非合法かの議論で大騒ぎしていたのに、今ではファション扱い出来るまでにハードルが下がってしまった。

そういった不穏な変化はいつも静かに加速して、気がついた時にはもうすっかり根付いてしまい手に負えなくなっていることがほとんどだ。

「480円でございます」

悪魔のような金額だ、そう思うと胸の中に冷たい風が吹き込んだ。

複雑な気持ちで商品を受け取ると、隠すように素早くバックの中へと押し込んだ。

川の中に沈む小石がどうして本流に逆らうことが出来るだろうか。

心の中で言い訳を溢しながらそそくさと店を出ていく。

この街もあの怪しいネオンの看板を打ち出した偽りのドラッグストアに侵されて、そればかりが乱立する煌びやかさに埋もれ始めている。

「非合法ドラッグのような危険性はなく、体への負担や副作用も小さいものなので、安心してお使い頂けます」

それが当時の販売文句だった。

それ以前に若い世代の間では密かに流行が進んでいたこともあって、安心・安全なんてことを今更気にかけるような者は滅多にいなかった。

それぐらい感動や喜び、興奮にリラックスといった何かの経験を通して得られる「内面の変化」の抽出と獲得は魅力的だったのだ。

脳内物質を意図的に発生させる云々と、何やら難しい説明がテレビの画面の中で語られているのを聞いたことがあるが、結局その理屈を理解することは出来なかった。

ただ確かなのは手の平に収まる小さな錠剤一つで、経験を省略出来るようになってしまったということだ。

例えば、二時間の映画を見た後の感動や余韻などの満足感をこの錠剤一つで得ることが出来てしまう。

そしてその得られる感覚の種類も今や多岐に及んで、経験を通すことなく結果的に得ることができる感覚を簡単且つ手軽に摂取出来るようになってしまったのだ。

「本編よりも予告編、すぐに完結する動画の視聴、刹那的な内容への愛着」

スピードを愛した若者たちの「ファスト」の感性は悍ましいまでに成長し、時代を飲み込むモンスターを生み出すまでに至ってしまった。

彼ら彼女らは今日もあらゆるものを省略して手軽に結果を摂取する。
息をするように、水を飲むように経験という価値を放棄しながら。

しかし、楽で簡単な世の中はハリボテの幸せの裏側で取り返しのつかない不自由を抱え始めていた。

それは積み上げることを放棄した怠慢な世界に対する罰のようなものでもあった。

「考える力の低下」

それは急激なまでに顕著に現れ、言うまでもなく若年層に大きな変化を見せ始めていた。

金になる市場にのめり込み、目の前の利益を追い求めて偏った成長を続けた社会は今、人類が獲得してきた特別な能力を対価に即席の便利性を買っている。

無力な人間が生き抜いていく為のただ一つの武器を手放して、自らただの草へ成り果てるために日々を溶かしているのだ。

「学習能力の低下や創造力の欠如なども若者や幼い子供の間に多く見られ、今社会の大きな問題となっています」

ニュースを届けるキャスターが危機感を募らせるような声色で世間に問いかけるが、恐らく時代の波は止まらない。

渦中の世代は今日も気軽にINSTANTを服用する。

ちょうどラムネのおやつでも楽しむように。

その一粒一粒が既存の娯楽や生活スタイルの消滅を助けていくことになるなんて毛ほども気にかけずに。

しかし・・・。

後ろめたい気持ちでバッグの口をグッと押さえると、逃げるようにしながら家へと帰る。

「迎合」

そうなるように世界はこれまでも選択肢を削りながら旧世代の人間に迫ってきた。

だから本流に沈む小石はただ流れに沿って転がっていくほかないのだ。

さぁ今夜も限られた娯楽を簡単に済ませて眠りにつくとしよう。

バッグの中から小さな箱を取り出して開封すると、ストリートの落書きのような色に染まった小さな錠剤を取り出した。

パッケージの「種類」のところには「懐古」という文字が記されている。

これはこれらを嫌厭してきたミドルやシニア世代に向けて売り出されたものらしく、今ではその世代の間でよく流行っているものらしい。

虚しいまでに軽い錠剤を手のひらで転がすと、水で一気に流し込んだ。

するとやけに胸のあたりが寂しくなって不意に泣き出したくなってしまった。

副作用は軽微でほとんどないようなものと聞いていたのに。

虚しさを増す胸の内とは裏腹に頭の中は「きっと満足出来るに違いない」という感覚で満たされ始める。

不意に何処かで私を呼ぶ声が聞こえた気がした。

窓から吹き込む冷たい風は悲痛な音を立てながら、一人立ちすくむ部屋の中を染めていく。

取り返しのつかないことをしてしまった。

声の主に気付いた時、心の底からそう思った。

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