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「ネコ人間」という生き物

私はネコ人間だ。

大学の講義の一貫で、学生数名で一冊の本をつくることになった。講義で与えられたテーマは「公共性」。「公共性」に関する本をつくらねばならないが、手垢にまみれたこの言葉に対してそこらの学生が何か主張したところで、先人が議論しているだろうし、何かを変えられるようなエネルギッシュな考えに行きつけるわけではない。なにより、堅苦しくてつまらない。あーだこーだ夜が更けるまで議論して、「ネコの本をつくろう」と話がまとまった。メンバー全員がネコ好きだったから。猫から世界を見ると人間視点とは異なった公共性が見えてくるのではないか、と最もらしい理由を一応付けたが、みんなネコ好きだったから。

本をつくっていくために役割分担をした。ネコの生態や体の構造を調べる人やネコと場所の関係を調べる人、ネコと他のネコとの関係を観察する人、そして私は「ネコ人間」という役割になった。

一体全体「ネコ人間」ってなんだ?そもそも私は「ネコ人間」なるものになっていいのか?と不安はあったが、来世は猫になりたいな~と思っていたし、まんざらでもない。そうして私は「ネコ人間」になるべく特訓を始めた。

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この世にネコ人間が大量に出現し、書類等で「人間・ネコ人間 どちらかに〇を付けなさい」という項目ができてしまっても責任をとれないので、「ネコ人間」になるための特訓は内緒だ。

訓練を重ね、ネコの身体に依存した形でのものの見方を人間的に解釈したのを常時考えられるという意味での「ネコ人間」になった。

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無事に本は完成した。もう私は「ネコ人間」である必要はない。しかし、一度染みついた「ネコ人間性」はなかなか取れない


「ネコ人間」になってから3か月後。大学の講義が終わり、充足感と虚無感を抱えながら、夕暮れに染まるベンチに座っていた。風が吹いて心地が良い。さわさわと草木の擦れる音がする。相当な面積とボリュームのある茂みだ。私は無性に飛び込みたくなって、走り出した。何かのツタに足を捕らわれないように足を下ろせる隙間を見つけながら、茂みの一部に潜りこんだ。そして、腰を落ち着けた。

あれ!?何かいる!!!!!

ネコだ!!!!!!!!!!!!!!!!!

私の右足から二十センチほどの近さにネコがいた。こっちを向いて「ニャー」とひと鳴きした。こりゃ失敬失敬と会釈しながら私は茂みを出た。「ネコ人間性」が唐突に発現し、本物のネコにとって居心地の良い場所をピンポイントで感知し、衝動として私の行動に影響を及ぼしたようだった。


さらに三か月後。私は深夜1時の公園の滑り台の下に体育座りをしていた。ついに内なる「ネコ人間性」が暴走し、私のすべてを乗っ取ってしまった、というわけではない。公園で友人と話をしていたら盛り上がり、夜がいつの間にか更け、そこに雨が降ってきたので滑り台の下で雨宿りをしていたのだ。公園に誰かの足音と話し声が響いた。どうやら複数人いるようだ。そしてどうやら私たちに気が付き、20mほどのところから見ている。ガタイの良い男がいる。こちらは女二人、勝てない。こういう時に、ゴリマッチョな男だったら危ない目に遭う可能性もこんな恐怖心も抱かなくてもいいのにな……と思う。いつかそんなことを思わなくてもいい社会が来ることを願いつつ、どうやってこの窮地を脱しようか考える。

滑り台の陰に隠れて、ちらちらと様子を窺う。ガタイの良い男が手を振ったり、ちょっと屈んでみたり、少しずつ近づいてみては見つめてくる。言葉が通じるんだから、普通に「こんばんは!」とでも言ってくればいいのに、なぜそんなまどろっこしいことをするのだろう。何かに似ているな、と思った。何かに……。

野良ネコに近づこうとする人間だ。

……私たちのことがネコに見えているのか?もしかして、私の「ネコ人間性」が他者に感受されている?じっと見つめながら距離を詰めてきたり、手をちょいちょいと動かしてみたり、彼はネコに対する行動をしている。不審すぎる。ネコが警戒して逃げるのもわかる。そして、二十分ほど攻防戦が繰り広げられ、彼らが拠点を変えようとしたときに、私たちも警戒して逃げた。
最後に「何年生ですかーーーーーーーーーー!」と叫ばれた。怖すぎる。二十分溜めていた私たちへの言葉がそれとは。それとも、人間だと思わなくて驚いた拍子に口をついたのがそれだったのか。私たちは早歩きで公園を出た。

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私は「ネコ人間」である。「ネコ人間性」が日常生活で発現するするほどに「ネコ人間」である。 

しかし、なんの犠牲もなく「ネコ人間」になれたわけではない。多種多様なネコと触れ合ったことで、「ネコアレルギー」になってしまった。

ネコに近づくと鼻水とくしゃみが止まらなくなる。もう私は、内なるネコ的な存在としか触れ合えないのだ。人間を奴隷とし、この地球を征服する「ネコ」という畏敬の存在に近づこうとしたがために、エジプト神バステトの怒りをかってしまったのだろうか。内なるネコ的な存在がものすごくメンヘラ依存気質で独占欲が強いがために、他のネコとの交流を許さないのだろうか。

どのみち私は、ネコと触れ合う際に役立つわけでもなく、人間の営みに役立つわけでもない「ネコ人間」という性質を持ってしまったし、今後もずっとそんな感じで日々を過ごしていくのだrハァックション


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