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何を残すか

明日が自分の最後だったら何をするか?
ありふれた質問の内容で これで自分の大事にしているモノが分かるとかいう程度の大した意味のない問い...のはずで僕もそう思っていた

だけどそこでふと考え行き着いたのは 「もうこれ以上考えなくて済むから むしろ喜びを感じると思う」だった
これは地球の終わりという質問に変えるとより願ったり叶ったりの答えで 周りには継続を求めながら,自分には終わりを求めている...と この矛盾は自分の中では衝撃的な変化を感じた

なんだかんだ言って 前は内容は変わっていくが周りの人をより含んだ,より響き合う答えを探すのが目的だった そしてそれは一生懸命考えた所で結局「終わりを想像させ継続を促す」様なありふれた答えだったと思う

でもそれが ある時ある種の継続性を何かに感じとったのか「終わりを願う」に変わっていた その終わりが本当の意味での終わりではないと感じていたのかは分からないけど...自分に対しては確かにそうだった

何かをする意味を考えても答えが出せない 何をしようかと考えても答えが出せない それは終わりを求めているから当然で,終わりを求めて何かを続けていく事には無理がある...これは実に納得のいく答えで素晴らしさも感じた

だけどここで少し質問を変えて これもありきたりだが「何を残すか」にしてみた...

そうした瞬間 様々な考えや思いが込み上げてきた 不思議なものでそんなに違いがないように思えた問いなのにそんな単純なものではなかった

消極的なリスク回避的な選択しかできない だから人を惹きつける誰かを探すしかない それによってやっと最小限のリスクをとる選択が出来る...と自分自身には感じていた でもそれはとんでもない勘違いだった 何かを終わらせる事には意味がある 意味の無いと思われたモノにも意味がある 今を継続する事以外にも意味がある それらを感じられた瞬間だったから

何かを残す

残すというのは強い言葉で行動につながるのも分かる そしてストーリーを駆使して陳腐な意味にされて都合良く使われて行くのも...

何をするのか,何がしたいのか よく聞かれる言葉だ 逆に言えば何かを残す為には何かをしなければならない でもこれは本当の事なのか?「残す何かの為」に何をするのか 「残す何か」を考えれば全てが決まるんじゃないのか 実際は難しくも意外に簡単な事じゃなかったのか

自分を動かすのは「残す何か」があるからで...短かく長くと考えて そして自分がいなくなった後でも なんとなく続く方向に 何を残すか考えていく... そしてその答えは多分そこに行かないと分からないだろうし 多分そこには自分はいないだろうけど それでも良いのだと思える「モノ」  何も為さずとも残っていく だからこれにほんの少しでも形をあげてみようとそんな程度の「モノ」

続ける事にこだわり過ぎていた

何もかも勝手に続いて行く,このくだらない世界も現状も...そしてそれは「残すモノ」を変えない限りは何も変わらないのかもしれない

いやむしろ変えられるのは「残すモノ」だけなのかもしれない...

この不確実な世界で...何を残すのか

何を残せば何が変わるのか...

だからいつもここに始まる理由があるのか...

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