時代に最適化されてこそ「伝統」。
地方に行くと、その土地に根付いた芸能とか祭事があります。
その多くは土地の神社やお寺を中心に発達したものですが、人がいなくなり担い手不足になって途絶えてしまったものも数多くあるでしょうね。
僕らも地元で受け継がれてきた伝統があります。
それが「神楽舞」。
元々は島根県西部の石見(いわみ)地域で発達した石見神楽が源流となっています。
石見神楽では、五穀豊穣を感謝する儀式的な演目もあれば、古事記や日本書紀の神話を題材としたストーリー性のある演目もあります。
本場の石見神楽とはお囃子の拍子が異なってはいますが、僕らも同じような演目をいくつか持っています。
伝統を守る担い手の問題。
田舎であればあるほど、担い手の問題は重大です。
僕らの地域でも、元々は集落で行われていた神楽も、時代とともに維持が難しくなっていました。
そこで、地元の中学生に指導し、中学生が舞台に上がる形で継承されてきました。
時代とともにベストの状態を探り、担い手を最適化するということ。
ちょうど僕も、神楽舞は中学生のころに授業として行っていました。
しかし、その中学校も生徒数が減ったために廃校。
僕らの神楽舞は、一度完全に途絶えました。
その後、地元の若手を中心に有志が集まり、「もう一度神楽やろう」という動きが。
僕も参加し、中学生当時の記憶を頼りにできそうな演目からはじめました。
そして、神楽舞復活から早2年。
時代に最適化されてこそ「伝統」。
伝統を語るとき、大事にされるのは「形式」です。
しかし、形ばかりを守ることにどれだけの意味があるのかは疑問です。
僕らの地域の神楽は、時代と主に担い手を変えながら受け継がれてきました。
最初は集落の伝統として。
時代とともにそれが困難になった時は、地元の中学生に。
地方によっては、「男性しか舞ってはいけない」といったような慣習を残すこともありますが、僕らは男女問わず舞台に上がりました。
全ては神楽舞を残すことを第一にした結果でしょう。
要は、「何を守りたいのか」です。
伝統を通じて、本当に守りたいものは何なのか。
それをよくよく考える必要があります。
そして、それを守るためには常にベストの状態へと形を変える覚悟も必要です。
時代も環境も一定ではありません。
時代に最適化してこそ、伝統は本当に意味をもつものだと考えています。
でも、担い手の最適化はまだまだ不十分。
過疎化に伴って余儀なくされた、消極的な一手なのは否めません。
守りから攻めへ。維持から活用へ。
小西美術工藝社の代表取締役社長でイギリス人アナリストのデービット・アトキンソン氏は著書『新・観光立国論』の中で日本の文化財には2つの意味があると指摘しています。
1つは財産。
もう1つはコンテンツ。
財産としてだけ捉えるなら、維持保全のために最低限のお金を投じればそれまで。
しかし、その価値を広く発信し、お客さんを呼べるコンテンツにするならば、違うアプローチを考えなくてはいけません。
そして間違い無いのは、維持保全だけの守りの姿勢では、いずれ立ち行かなくなるということ。
かつての神楽舞のように、担い手不足でジリ貧になるのは目に見えています。
コンテンツとして「活用」し、「稼ぐ」。
攻めの姿勢で文化や伝統と向き合うべき時に来ています。
これこそが本当の最適化。
伝統を、お金を払ってでも味わいたくなるようなコンテンツとして整備すること。
そうしてこそ、守りたいものは次の世代へ受け継がれるのでは無いでしょうか。
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