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ヘミングウェイ『老人と海』 人生は厳しい、それでも闘い続ける理由とは

この夏に小学生の娘が読書感想文を書いている姿を見て、中学2年生の夏休みに、ヘミングウェイの『老人と海』を読んだことを思い出した。新潮文庫の福田恆存訳だった。自分がそのときどんな感想文を書いたか思い出せない。40年近く前のことだ。

この本を選んだのは、自分の趣味である釣りが題材になっていたから。本の薄さも気に入った。夏の午後、エアコンのない部屋で扇風機の風に吹かれて、汗を流しながら読んだ。作品の舞台であるキューバのぎらぎら光る太陽とうだるような暑さが重なる。

不遇の日々を乗り越え、老人は巨大な獲物を釣り上げる。しかし、その後やってくる虚しすぎる結末。人生とは、こんなにも辛く厳しいものなのか。それでも人は生きなければならないのか。14歳ながら人生の深淵を垣間見る読書体験だった。

かつての有能な漁師が衰えを自覚

小学生の頃、釣りをするため一人、自転車で川に行くことがしばしばあった。夕暮れの川面をゆっくりと流れていく浮きを見つめていても、寂しいとは思わなかった。私が釣ったのは、20センチ前後のフナやコイ。この小説の主人公、サンチャゴはカリブ海に舟を出し、マカジキ(俗称カジキマグロ)を狙う。スケールは比較にならないが、静かに当たりを待つ時間と魚がかかった時の興奮は大して変わらないはず。そう思いながら読んでいた。

かつては有能な漁師だったサンチャゴも歳には勝てず、獲物がない日が続いていた。周囲から同情され、彼が漁を教えた少年、マノーリンに、身の回りの世話をしてもらっている。ところが、サンチャゴに引退する気は少しもない。力の衰えを自覚しながらも大物を求めて一人海に出ていく。この孤独な姿がいい。自然の中で独りになれるところが釣りの魅力だ。

この小説をはじめて読んだときの私が、老いたサンチャゴの悔しさや焦りを十分に理解できたとは思わない。一方、今の私は会社員人生も終盤を迎え、定年が着々と近づいている。サンチャゴは近い将来の私である。限界を自覚しつつ、それに抗おうとする気持ちは痛いほど分かる。

釣れなくても「毎日が新しい日なんだ」

サンチャゴは、一匹も釣れない日が八十四日続いていた。釣れないつらさは、小物釣り専門の私にも心当たりがあった。朝早くから準備をして、意気揚々と釣り場に乗り込む。竿を出して、浮きを見つめるが、いつまで経ってもピクリとも動かない。諦めかけたころ、浮きが素早く沈む。慌てて竿を上げると、餌だけが消えている。そんなことを繰り返すうちに、日が暮れる。残るのは疲れと虚しさだけだ。

こんな日があると、釣りは当分止めようと思う。でもしばらくすると、竿を通して伝わるブルブルという手応え、魚が死にものぐるいで逃げようとするときの振動が忘れられず、また川に向かってしまう。サンチャゴの手にも大物を釣ったときの感触はいつまでも残っていたはずだ。あの興奮をもう一度味わいたい。そんな思いが彼を海に向かわせたのだろう。

運に見放されたサンチャゴのことを、周囲は「サラオになってしまった」とうわさした。「サラオ」とは、スペイン語で「最悪の事態」という意味だ。周囲の冷やかかな視線が辛くないはずはない。老人はそれでも前向きな構えを崩さない。

どうやらおれは運に見はなされたらしい。いや、そんなことわかるものか。きっときょうこそは。とにかく、毎日が新しい日なんだ。

『老人と海』

「毎日が新しい日なんだ」――。このシンプルで前向きな言葉に当時の私は救われた。小学生の頃と勝手が違い、勉強もスポーツも思うようにいかないず、挫折を味わっていた。明日はうまくいくかもしれない。この小説を読んだ夏からそんなふうに思い、もう一度チャレンジできるようになった。諦めなければ風向きは変わる。

そしてサンチャゴの最悪の日々は八十五日目に終わった。

巨大マカジキとの死闘、そして……

サンチャゴは、魚が掛かったら分かるように綱を木の枝に引っ掛けておいた。その枝がぐっと傾く。獲物が餌を食ったのだ。ここから、巨大マカジキと老漁師との長い闘いが始まる。獲物は、釣り針をくわえたまま舟を引きずり回す。老人は、綱を背中に回して、魚の抵抗を必死に抑え込もうとする。

マカジキが掛かってから、48時間近く経過していた。その間、舟は獲物に引きずられ続けていた。老人は空腹を満たすため、釣り餌として持ってきた小型のマグロや、途中で釣り上げたシイラを生のまま食べた。舟に乗っているのは老人だけだ。何でも自分でやらないといけない。大物とつながった綱を体に巻き付け、空いた手で食料用の魚を釣り、ナイフでさばいて切り身にする。ベテラン漁師のサバイバル術はすごい。

ようやく疲れたマカジキが、輪を描いて周りながら少しずつ浮上しはじめる。疲れているのは老人も同じだ。体のあちこちが傷み、何度も気を失いかけるが、それでも闘い続ける。長時間の闘いを通して、老人は敵に親しみを抱きはじめる。

おい、兄弟、おれはいままでに、お前ほど大きなやつを見たことがない。お前ほど美しいやつも、お前ほど落ちついた気高いやつも見たことがないんだ。さあ、殺せ、どっちがどっちを殺そうとかまうこたない。

『老人と海』

老人にとって、マカジキは敵であると同時に、リスペクトの対象であり、兄弟でもある。命をかけた闘いの果に現れる崇高な感情なのだろうか。もはや、老漁師と巨大マカジキは一心同体である。

獲物がついに、水面近くに姿を現す。老人は、最後の力を振り絞り、全身を預けて銛を突き刺す。

魚が海面に銀色の腹をだして仰向けに浮んでいた。銛の柄が肩に斜めに突きささっている。海は、心臓から吹きだす血のために、あたり一面、真っ赤に染まっていた。

『老人と海』

ようやく仕留めた獲物は、全長18フィート(約5.5メートル)、重量1500ポンド(約680キロ)という巨体だ。舟には載らないので、舷側に横付けして綱で固定して、港に戻ることにした。

絶望的な闘いから手に入れたもの

老人は、大物を釣り上げて、意気揚々と港に向かうのだが、さらなる試練が待っている。マカジキの血の臭いを嗅ぎつけたサメが襲いかかってきたのだ。老人は、銛(もり)でサメを突き刺す。しかし、サメは銛が刺さったまま海に消えてしまう。今度は、舟のオールの先にナイフを付けて武器にする。それも失えば、舵の柄を取り外して応戦する。しかし、サメは次々にやってきて、マカジキの肉を食いちぎっていく。そんな絶望的な闘いを老人はやり遂げようとする。「柄と梶棒があるかぎり、おれは最後まで闘ってやるぞ」。読者は老人の闘いを息を詰めて見守るしかない。

老人はマカジキを必死で守ろうとするが、内心で、勝ち目がない闘いだと知っている。

真夜中近く、かれはもう一度、闘った。今度は、かれも、それがむだな闘いであることを知っていた。敵は群れをなしてやってきた。

『老人と海』

長く夢見ていた成功を手に入れた直後に、それを奪われる。目の前にある自分の成果を、誰かが横取りしていくが、それを阻止できない。「これが人生なら虚しすぎる」――。中学生の私はそう思った。この先、これほどつらい人生が待っているのか。耐えられる自信がなかった。

それに引き換え、老人の不屈の闘志はどこから生まれるのか。さっきまで敵だったマカジキに対する感情は、リスペクトから友情、さらには同士愛のようなものに変わった。その同士を守りたいという思いはもちろんあるだろう。でもそれだけなのか。老人は、勝てないと分かっているサメと闘いを続けることと引き換えに、何かを手に入れようとしているのではないか。

今の私なら、老人がサメと闘い続ける理由を理解できる。彼は、諦めずに闘ったという誇りを手に入れたいのだ。自分自身を信用するためだ。「最後まで諦めずに勝負した」。試合で負けたアスリートがしばしば口にする言葉である。アスリートは、負け試合でも諦めずに闘うことで、厳しいトレーニングに耐え、次の試合に挑む勇気を得る。自分はまだやれると――。

サンチャゴが手に入れるものは他にもある。獲物を失っても、自分の闘いぶりを理解してくれる仲間だ。老人が港に着いた翌朝、漁師たちは舟に横付けされた獲物の骨の長さを測った。それを見ていた食堂の主人は、「まったくたいした魚だ」と称賛の言葉をマノーリンに告げた。

コーヒーを持って老人の小屋を訪れたマノーリンにサンチャゴが語る。

「すっかりやられたよ。マノーリン、かたなしだ」
「お爺さんはやられたんじゃないよ。魚にやられたんじゃないよ」

『老人と海』

港には老人の闘いを評価してくれる仲間がいる。そしてマノーリンは、サンチャゴの誇りを受け継いでくれる。だから最後の場面で老人は、満足げな様子で、深い眠りにつくことができる。それをマノーリンが見守っている。ここには、獲物を奪われても、消えない希望がある。


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