見出し画像

散文 夏を撒く

私は今、蚊に刺されている。左の肘に少しの痛みを感じたから目をやると細い足と胴、そして翅がそのサイズよりも存在感を表していた。すぐに腕を動かすと消えた。ぎりぎり噛まれていなかったのだろう。だけど、先の痛みを意識してしまって、痒くなってきた気がする。気の所為かもしれないけど、痒い気がする。こそばゆくて、痛い。

私はきっと思い込んでいるだけ。痛みを作り出しているだけでしかないんだろう。今もずっとジーっと虫の声がしている気がするし、それが虫なのかすら定かじゃなくて、なにかのモーター音の可能性だってある。そもそも鳴ってないかもしれない。夏の錯覚だ。

ゴムのホースから勢いよくでる水を眺めていた。一つ一つの粒を見ている気がするけれど、私は何も捉えられていない。ただ、滴となったものたちが緑を覆う様が気持ちが良かった。祖母から託された紫蘇は虫に食われて穴だらけで、死なないように水をやる。すくすくと育つのだけど、私たちの口には入らない。

庭の端をゆっくりと猫が通っていく。黒に茶色が混じったような大きい猫がシッポを高くあげながら、我が物顔で歩いていく。丸々と太ったボスのような猫は肩で歩く。その様をじっと見ている。

彼らは水分補給をどこでしているんだろう。ここら辺に小川はない。池もない。雨は降ってない。そういうとき、彼らは水分不足なのだろうか。水飲み場があるのだろうか。そもそも、アイツは野良猫なのだろうか。もしかして、どこか近所で飼われているにゃんこなのか。だとしたら、何故あそこまで厳つく私の庭を通っていくのだろう。水を飲んでいて欲しいな。この私のホースから流れる水を飲んでいたりするのだろうか。

思考が変わり行く。次々と変わっていく思いは、空を染めるピンクと同じようだ。さきほどまではピンク色だった雲がいつの間にかグレーになっている。もともとが濃い灰色だったのだろう。太陽によって染め上げられていて、本来の色に戻っただけなのだ。だけど、私は色を失ってしまったのね、と思う。私は無彩色を色だと認知していなくて、ピンクや赤やオレンジの方が優位であると思っているのかもしれない。だって、美しいから。でも、今見ているただふたつだけ並ぶグレーの雲も夕焼けの沈んだ夏の夜の始まりにはピッタリで、好きだった。好きだった。

夜がやってくる。遅い夜が。
空はやっと暗くなってきた。
7時になる前に入ったお風呂は、明るくて、やっと訪れた夏を感じた。

すりガラス越しに見る空は水色で、春の12時頃を思わせるぐらいの幸福感であった。明るいお風呂に入るのは、少し優越感を感じる。誰もきっとこんな時間にお風呂に入ってないだろうな、なんて笑えてくる。とても素敵な時間を誰も知らないんじゃないかな、と思いながらお湯に浸かる。体に水の圧がかかるのが気持ちよくて、ニシシと笑うのが好きだった。お風呂に溜めたお湯は透明で水色で、気持ちが良かった。

ああ、夏だ。
この夏が、まだ始まったばかりだということに感謝を覚える。命が沸き立つのがわかる。

水やりで濡れた足の裏を拭いて、私は冷蔵庫から水を取り出す。冷たさが私の喉を通っていく。食道を冷やし、体の熱を下げる。

良い。あ、肘が少しだけ腫れていた。だけど、痒くはなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?